先の大戦で沖縄並びに航空戦に散華された先輩、同僚、また運命を共にした航空機材の冥福を祈ります。 沖縄翼友会
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空華之塔(くげのとう)について

空華之塔 青空にはためく旗 合同慰霊祭

太平洋戦争は沖縄を天王山として終結しました。例え悲しい敗戦に終わったとは申せ、地球の半ばを覆う広大な戦域を舞台として優秀な連合軍の空軍を対手に戦い抜いた我が航空勢の健闘は国民は申すに及ばず世界の人々のひとしく認めるところでありまして、軍官民の搭乗員はもとより整備、補給、通信、警備等に従事した人達や飛行機その他航空機材の生産に日夜精魂を傾注された人々の偉大な功績は我が国の歴史と共に永久に忘れることの出来ないところであります。

特に沖縄戦に於きましては本土防衛の防波堤として莫大な人員と航空機を投入、前途有為の若者が護国殉忠の一念に燃え祖国の勝利を信じつつ若き生命を沖縄の空に散らしたのであります。

我々生き残り航空関係者は終戦以来絶えずかつて世界に雄飛し、太平洋戦争で示した我が航空の偉業を後生に伝えると共に再建日本の航空の発展を祈念する方途を考へていたのでありますが今回在沖縄有志と本土関係者共々に相諮りまして太平洋戦争で最大の犠牲を出した沖縄に戦没航空人の記念碑を建立すること致しました。

塔は「空華之塔」(くげのとう)と名づけ沖縄並びに太平洋航空戦に散華した先輩、同僚や、これらと運命を共にした航空機材の冥福を祈ると共に再建日本の航空発展を祈念するのを趣旨と致しました。

沖縄翼友会 会長挨拶

空華乃塔(沖縄翼友会)沿革

昭和29年10月24日(1954):在沖縄旧航空関係者20名で沖縄飛行クラブ結成。
昭和30年1月24日(1955):木村滑空機研究所設計KK101B型中級複座滑空機1機を購入。
昭和30年1月30日(1955):那覇市上の山中学後方広場にて戦後初の滑空機の曳索滑空訓練開始。
昭和30年2月23日(1955):米海軍所有の与那原飛行場(現西原町)で自動車曳航滑空訓練開始。
昭和30年4月17日(1955):琉球列島米国民政府より航空法規布令告示まで滑空飛行訓練中止命令を受け、以後滑空訓練不能となる。
昭和36年初頭(1961):飛行クラブ会員間に大東亜戦争中、特に沖縄戦における航空関係戦没者慰霊塔建立の議が澎湃として起こり、来沖した日航職員小原申蔵氏らの協賛を得て慰霊塔建立運動始まる。
昭和36年3月7日(1961):慰霊塔建立地は当初読谷飛行場(北飛行場)を予定せるも同地は米軍用借地のため沖縄戦終焉の地、摩文仁に決定、現建立地主の内諾を得る。
昭和36年3月16日(1961):防衛庁に於て日本本土側初会合。
昭和36年8月2日(1961):沖縄側に於て「沖縄戦戦没航空人慰霊等建立期成会」発会、塔名を「空華之塔」と命名。
昭和36年9月1日(1961):元陸軍航空総軍司令官陸軍大将河辺正三氏謹書になる「空華之塔」の假碑(370×20)桧柱、日本航空の無債空輸にて到着。
昭和36年12月30日(1961):假塔建立招魂式を摩文仁建立地にて行う。
昭和38年5月30日(1963):沖縄、日本側建立期成会寄付金募集を申請、募金活動開始。
昭和39年8月(1964):本塔工事開始。
昭和39年10月31日(1964):本塔完成。
空華之塔
昭和39年11月1日(1964):空華之塔除幕式及び慰霊祭を陸軍特別攻撃隊第17飛行隊伊舎堂用久少佐の母堂伊舎堂ミツ様の除幕にて行う。空華之塔建設期成会を解散し「沖縄翼友会」に改称、慰霊祭を毎年9月20日(空の日)前後に行うことにする。
除幕慰霊祭の案内状と記念写真 ※原文コピーがあります。
当時の新聞報道 ※原文コピーがあります。

昭和40年12月26日(1965):日中戦争最初の本県出身航空関係戦没者、太田輝夫海軍一等航空兵の墓碑を遺族(鹿児島市在)了承の上慰霊塔敷地西端に移転安置。
太田輝夫海軍一等航空兵の墓碑
当時の新聞報道 ※原文コピーがあります。

昭和42年1月(1967):青い目の艦隊を震撼させた“沖縄特攻”の慟哭を聞け首里山上に立つ軍司令官と参謀の目の前で散華した日本人たち「丸」昭和42年1月号(236号より)
※原文コピーがあります。

昭和45年8月10日(1970):ダバオの塔への土地譲渡。

昭和45年9月19日(1970):航空自衛隊第7航空団(百里基地)よりT-34メンター練習機のプロペラ1基の寄贈あり、日本航空整備、日航、南西航空の援助にて慰霊塔上部に設置。
※クリックで拡大出来ます。↓70.9.1というスタンプが見えます。
プロペラ1基
当時の新聞報道 ※原文コピーがあります。

昭和50年10月14日(1975):義烈空挺慰霊碑への土地譲渡。

昭和55年8月10日(1980):陸軍飛行隊第19戦隊「飛燕特攻之碑」併置建立。
飛燕特攻之碑

昭和62年2?3?11月18日(1987):ノンフィクション戦後民間航空史 大空の証言第1部・空自のつばさ 駿河 昭 第3章・不沈空母「沖縄」炎上(1)
※原文コピーがあります。

昭和63年5月29日(1988):南方航空輸送部戦没者慰霊碑を併置建立。
南方航空輸送部戦没者慰霊碑
南西航空の歌と五十七年ぶりのタクロバン空港 元JAL機長 三橋 孝※原文コピーがあります。

平成11年(1999):平成11年度慰霊祭。
平成11年度慰霊祭集合写真

平成27年10月30日(2015):台湾の塔への土地賃貸契約。


(注)募金者及び団体 航空局、各航空会社、各航空機製造会社、防衛庁(省)、陸海空自衛隊、旧航空関係者、遺族、一般応募者。 慰霊碑建立地 沖縄県島尻郡糸満市摩文仁ハンタ上原(摩文仁戦跡公園内) 初代会長 渡嘉敷 守定 (元陸軍特別操縦見習士官一期生) 元会長 古波津 里英 (元陸軍少尉) 陸軍大将より表彰状 前会長 玉那覇 徹次(旧逓信省熊本地方航空機乗員養成所第12期操縦生) 事務局 〒901-2104 沖縄県浦添市当山3-2-1 有限会社 沖縄タカラ住設内 沖縄翼友会 顧問 濱松 昭 会長 根路銘 敦 事務局長 島袋 朝永
沖縄「空華之塔」建立趣意書(クリックで開きます)
沖縄「空華之塔」建立趣意書

太平洋戦争が終わって早くも十六年になります。たとえ悲しい敗戦に終わったとは申せ、地球の半ばをおおう広大な戦域を舞台として優勢な敵の空軍を相手に戦い抜いたわが航空の健闘は、国民は申すに及ばず世界列強のひとしく認めるところでありまして、軍、官、民のとう乗員はもとより整備、補給、通信、警備等に従事した人達や、飛行機その他航空機材の生産に日夜精魂を傾注された人々の偉大な功績はわが国の歴史とともに永久に忘れることの出来ないところであります。

敗戦とともに我航空は一度は解散の憂き目をみたのでありますが、幸に日本の再建に伴って新しく自衛隊の航空部隊としてはたまた民間航空として力強く世界の空に雄飛するに至りましたことは御同慶の至りであります。我々航空関係者は終戦以来絶えずかつて世界に雄飛し太平洋戦争に活躍したわが航空の業績を後世に伝えるとともに再建されたわが航空の発展を祈念する方途を深めていたのでありましたが今回たまたま沖縄の航空関係有志の間に航空慰霊塔建立の議が起り内地の関係者に諮られたのを機に有志相諮り沖縄に呼称して航空祈念塔建立運動を始めることと致しました。塔は空華之塔と名づけ太平洋航空戦に散華した先輩、同僚や、これらと運命を共にした航空機材の冥福を祈るとともに再建日本の航空の発展を祈念するのを趣旨といたしたく存じます。建立場所は太平洋戦争の航空作戦最後の航空作戦の地であり再建日本の最南端である沖縄摩文仁の丘陵に選定しました。元来沖縄には健児の塔、ひめゆりの塔を始めとして数多くの記念碑が建立され訪れる内外人も日に多くなっている実情でありますが航空を表象したこの種記念碑はなく言わば航空のみが忘れられた貌でありましたので今回の企ては特に意義ありと考えて居ります。建設予定地に就きましては既に現地当局の了解も得ましたので先般有志相はかり取敢えず元航空総軍司令官 河辺正三氏の謹書になる「空華之塔」の仮碑を謹作し日本航空株式会社を初め関係方面の御協力を得て現地に建立いたしました。仮碑は長さ十三尺、五寸角檜材製の質素なものでありますのでなるべく速やかに本格的な「空華之塔」を建立いたしたく沖縄に呼称して建碑運動を始めたく存じますので何卒大方の御協力と御激励を賜りたくお願い申し上げる次第であります。

昭和三十九年十月

発起人一同

沖縄「空華之塔」建立趣意書

原文コピーがあります。

沖縄翼友会会則(クリックで開きます)
沖縄翼友会会則

(総則)

第一条 この会は沖縄翼友会と称し、事務所を西原町に置く。

第二条 この会は航空愛好者の集いにして、航空知識の向上と航空関係団体との連携により航空発展に寄与するとともに、本土及び郷土出身航空関係の戦没者、殉職者の慰霊顕彰と会員相互の親睦、共助を目的とする。

(事業)

第三条 この会は第二条の目的を達成するため、次の事業を行う。

一、 航空に関する各種行事の開催及び参加。

ニ、 航空に関する資料の蒐集及び調査。

三、 「空華之塔」の維持管理及び航空関係慰霊碑等の維持管理の受諾。

四、 その他この会の目的達成に必要な事業。

(会員及び会費)

第四条 この会の会員は、この会の目的に賛同し入会したものとし次の区分とする。

一、 個人会員

ニ、 団体会員

第五条 会員として入会しようとする場合は、入会申込書を代表に提出し、会員の過半数の承認を得るものとする。

(会費)

第六条 会員は以下に定める会費を納入しなければならない。

一、 個人会員 年額 二千円

ニ、 団体会員 年額 五千円

(退会)

第七条 会員は、退会届を代表に提出し任意に退会することができる。

二、 会員が次のいずれかに該当するときは、退会したものとする。

(一)本人が死亡したとき。

(二)会費を3年以上納入しないとき。

(役員)

第八条 この会は会員の互選により会長、事務局長及び監査員を選任する。

一、 会長はこの会を代表し会務を総括する。

ニ、 事務局長は会長の命を受け事務を処理し、会長に事故ある時はその職務を代行する。

三、 監査員はこの会の会計を監査する。

四、 会長及び事務局長は、やむを得ない場合、代行を選任することができる。

(資産及び会計)

第九条 この会の資産は次のとおりとする。

一、 会費

ニ、 寄付金

三、 その他の収入

第十条 この会の経費は資産をもって支弁する。

第十一条 この会の会計年度は毎年一月一日に始まり翌年十二月三十一日に終わる。

(雑則)

第十二条 この会則の変更は会員の過半数の承諾を得なければならない。

附則 1 この改正会則は令和四年一月一日から執行する。

   2 令和元年年十月二十日制定の会則は廃止する。

(事務局)

〒901-2104 沖縄県浦添市当山3-2-1 有限会社 沖縄タカラ住設内 沖縄翼友会

顧問 濱松 昭

会長  根路銘 敦

事務局長  島袋 朝永

沖縄翼友会前会長の各種履歴(クリックで開きます)
沖縄翼友会前会長の各種学歴・航空・職歴
氏名:玉那覇 徹次 大正13年7月20日生まれ。
昭和17年9月:沖縄県立第一中学校5学年中退して下記養成所に入所。
昭和18年9月:旧逓信省熊本地方航空機乗員養成所第12期操縦生課程を終了。2等航空機操縦士並びに2等航空士免状習得。
昭和19年3月:旧陸軍台湾嘉義第38部隊(重爆撃機操縦教育隊)にて予備役操縦下士官学生課程を終了して現役編入。
昭和19年4月~9月:旧陸軍大刀洗陸軍飛行学校熊本・筑後教育隊にて少年飛行兵第15期生並びにと特別甲種幹部候補一期生の操縦教育を担当。
昭和19年10月~20年8月25日:旧陸軍浜松陸軍飛行基地在飛行第110戦隊にてキー67(爆撃機・飛龍)の操縦士として、サイパン・硫黄島・沖縄戦に参加。
昭和20年9月~21年7月:復員後、熊本大矢野原旧陸軍演習場跡の開拓地で農業に従事。
昭和21年10月:沖縄の家族全員が生存していることが判り帰郷。
昭和21年9月~24年9月:米空軍嘉手納基地補給部にて通訳として勤務。
昭和24年10月~33年9月:琉球農業協同組合連合会に通訳(民政府渉外)として購買課に勤務。
昭和33年10月~34年9月:米空軍飛行クラブのマネージャーとして勤務(元ハンビー飛行場)。
昭和34年9月18日~40年11月:日本航空株式会社沖縄支店航務担当者としての試験に応募採用され、運航管理担当者として勤務。
昭和39年3月:米国FAA自家用免許/計器級を戦後沖縄人第一号として習得。
昭和39年12月:運輸省航空局事業用操縦士技能証明書習得。
昭和40年12月:日本航空羽田空港在運航乗員訓練所の教官要員として勤務。
昭和42年7月~60年3月31日:運航乗員訓練所に所属のままDC-8のシミュレーター教官教育を終了の後に任命され定年まで勤務の後退職。
昭和45年4月~53年3月:日本大学通信教育学部(英米文学専攻)に在籍して学士号を修得して卒業。中学・高校の英語科目教師の免状も取得。
昭和57年6月:東京ステノカレッジにて現代商業英文コース(6ヶ月)を終了。
昭和60年9月~61年3月:日本英語教育協議会主催の日本語教師課程(春・秋)を終了。
昭和61年1月~3月:日本英語教育協議会主催の高校英語教育実習講習会にも出席。
昭和61年3月~63年3月:神奈川県大和田市在住ベトナム難民に対してボランティアで月1~2回(日曜日)に日本語を教える。
昭和62年10月~63年3月:東京・赤坂在ABC外語学院並びに横浜在飛鳥学院(日本語学校)にて(英・米/韓国・中国人)に日本語を教える。
昭和63年4月1日~平成4年6月19日:琉球エアーコミューター株式会社の常務取締役/運航所長として勤務の後、6月の定時総会にて任期満了として辞任。
平成4年9月:国際ツーリズム専門学校の非常勤講師として勤務。
平成15年4月:学校閉鎖に伴い退職。
令和5年3月:逝去(享年 100歳)

空華之塔(くげのとう)について

太平洋戦争は沖縄を天王山として終結しました。例え悲しい敗戦に終わったとは申せ、地球の半ばを覆う広大な戦域を舞台として優秀な連合軍の空軍を対手に戦い抜いた我が航空勢の健闘は国民は申すに及ばず世界の人々の・・・>>>つづき空華之塔 Okinawa yoluyukai

アクセス

沖縄県平和祈念公園内に空華之塔はあります。那覇から平和記念公園は約22kmあります。沖縄本島の最南部糸満市摩文仁ありバス、タクシーもご利用できます。・・・>>>つづき案内地図 Okinawa yoluyukai

沖縄航空史

琉球王「尚 穆」(しょうぼく)の時代36年の頃、首里士族で花火師の安里周当(あさとしゅうとう)が凧(たこ)用の飛翔体で、南風原村(はえばるそん)字津嘉山(あざつかざん)部落の自宅および付近の山野で飛行したとの逸話伝説あり。・・・>>>つづき飛び安里Photo:南風原町観光サイト
Okinawa yoluyukai

寄付について

戦後70年が過ぎ会員の高齢化と会員数の減少に伴い、維持管理の費用もそれぞれが持ち出しという状況になっています。先の大戦で勇敢に戦った英霊の功績を後生に残したい思いでなんとか維持しいるのが現状と申せましょう。航空関係者のみならず多くの日本の方々に心よりご支援の程御願い申し上げます。 Okinawa yoluyukai