先の大戦で沖縄並びに航空戦に散華された先輩、同僚、また運命を共にした航空機材の冥福を祈ります。 沖縄翼友会
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最後の特攻「赤トンボ」の戦い

神風特別攻撃隊第三竜虎隊 九三式中間操縦練習機(通称:赤とんぼ)

九三式中間操縦練習機(通称:赤とんぼ) Photo:小名木善行 ねずさんの ひとりごとより

沖縄戦終結後(6月23日)の7月27日、台湾の竜虎海軍基地で、三村弘上飛曹以下7名、計8名に、特攻命令が下りました。7月28日の早朝に台湾の新竹基地に到着。そこで彼らに「神風特別攻撃隊第三竜虎隊」の命名式と別盃式が行われました。そして直ちに宜蘭基地を経由して、石垣島へ転進、石垣島から宮古島へと移動しました。

神風特別攻撃隊第三竜虎隊の命名式と別盃式 神風特別攻撃隊第三竜虎隊の命名式と別盃式(台湾新竹基地)

なぜ、このように小刻みに移動しなければならなかったのか。本来なら台湾から慶良間まで真っ直ぐ飛べる距離です。ところが第三竜虚隊の乗る飛行機は、もともと練習機として採用されたもので、躯体は木でできていており、翼は布張りで鋼管フレームの複葉機でした。練習機だったので目立つようにオレンジ色に塗装されていました。そのイメージから「赤とんぼ」と呼ばれ隊員からは親しまれていました。もちろんこの時局において特攻仕様として機体を濃緑色に塗られています。

この時期は、特攻により多くの戦闘機が失われています。最後の最後まで諦めず戦うのがこの時代の日本軍人の精神でした。多くの特攻機の馬力は約2000馬力、しかし練習機の赤とんぼは300馬力です。第三竜虚隊に先立った第一と第二竜虚隊は飛行中に故障を起こし全機が与那国島へ不時着してしまい飛行不能状態になりました。ましてやこの機体に250キロ爆弾を括りつけています。本来の仕様では30キロ爆弾×2までです。小刻みに移動したことは無理もありませんでした、限界を超えていたのです。

それでも何とか宮古島の基地から飛び立ち果敢に操縦して米艦隊の群がる沖縄の海に向かいました。当時の戦闘機の最高時速は約600km/hです。しかし250キロ爆弾を積んだ赤とんぼは、時速130km/h程度でした。そんな状況にも係らず沖縄を護るため日本を護るため決行しました。

沖縄戦終結の6月23日以降でも散発的に日本軍は抵抗しています。なので米軍も油断無く警戒していたにもかかわらず、赤とんぼの特攻により那覇市南西90キロの海上において米駆逐艦キャラハンその他3隻の艦艇を撃沈、大破の大戦果を遂げたのです。なぜ、低速で布張りの飛行機がこの大戦果を成し得たのか。米艦隊のレーダーは最新式のもので日本軍の飛行部隊を150kmで捕捉できました。

ところが極めて操縦性能の良い赤とんぼは夜の海を海上すれすれで飛行していたのです。しかも機体は木と布張りです。そのためレーダーに捕捉され難く、搭載の250キロ爆弾もレーダーには点が消えたり点いたりして判断に苦しんだのでしょう。まして飛行速度が非常に遅いので戦闘機とは判断できないでいたようです。

ようやく敵機と気付いたときはすでに20km先で、到着まで10分の距離でした。あわてて戦闘準備しますが、海上すれすれの低空飛行なので高射砲も撃てません。至近距離に近づいた赤とんぼを迎撃しますが、赤とんぼの機体は布張りなので弾が貫通して墜とせません。三村隊長以下7機の第三竜虎隊は全機敵弾を受けて機体を穴だらけにしながら、敵艦隊に迫りました。そして最初の一機が、米軍の最新鋭駆逐艦「キャラハン」の右舷に体当たりし250キロ爆弾が装甲甲板を貫通、弾薬庫に誘爆し大爆発炎上しあっというまに沈没しました。

続く2番機も近くにいた駆逐艦「ブリチット」に突入し惜しくも僅か手前で撃墜されますが、搭載した爆弾が「ブリチット」に命中。大破しました。また「ブリチット」の近くにいた米駆逐艦「カシンヤング」は、赤とんぼ2機を撃墜しほっとしていたのも束の間、宮古の基地に引き返した2機が機体の整備を終え、すぐその後方から向かってきていました。「カシンヤング」は迎撃しますが、間に合わず2機の赤とんぼは右舷に激突しました。「カシンヤング」の中央部が大爆破炎上しました。さらに米駆逐艦「ホラスAバス」にも特攻機が命中し炎上しています。第三竜虎隊の特攻攻撃の成功率は実に57%でした。この駆逐艦「キャラハン」は、特攻機で沈没させらられた米軍最後の艦でした。

神風特攻隊第三次竜虎隊の碑

「第三竜虎隊」隊は以下の7名です。
水偵出身で洋上航法に習熟した海軍上等飛行兵曹三村弘(岡山県)。
予科練出身の、海軍一等飛行兵曹 庵民男(鹿児島県)
同、佐原正二郎(静岡県)
同、川平誠(静岡県)、
同、原優(長野県)、
同、近藤清忠(長野県)、
同、松田昇三(東京都)、
小名木善行 ねずさんの ひとりごと参照

現在、宮古島の市営陸上競技場の東の嶺に、「神風特攻隊第三次竜虎隊」の碑が建っています。

「神風特攻隊第三次竜虎隊」の碑 某ブログ様より

そこには、次のように記載されています。

【建碑の由来】

もう何も思うまい何も思うまいと、思うほどこみ上げる父母への思慕、故郷の山河。今生の別れの瞼にうかぶ月影淡く孤独を伴に無量の思いを抱き、唯ひたすら沖縄へこの胸中いかにとやせん。ああ途絶の死真に痛恨の極みなり

 一九四五年七月二十九日夜半
 神風特別攻撃隊第三次竜虎隊上飛曹 三村弘
 一飛曹 庵 民男
  同  近藤清忠
  同  原  優
  同  佐原正二郎
  同  松田昇三
  同  川平 誠

義烈七勇士は、日本最後の特攻隊として、世界恒久の平和を念じつつ、ここ宮古島特攻前線基地を離陸。
沖縄嘉手納沖に壮烈特攻散華す。
その武勇萬世に燦たり。
願はくば御霊安らかに眠られよ。
父母のみむねに

神風特別攻撃隊竜虎隊一同
一九九五年七月二十九日
神風特攻第四次竜虎隊員
滋賀県水口笹井敬三

「神風特攻隊第三次竜虎隊」建碑の由来 某ブログ様より

【鎮魂の詩】

紺碧の海 風亦清し
島人素朴にして
人情濃いなり
誰か思わん 此の地激戦跡なるを
瘡偉飢餓将兵僵る
相図る戦友建碑の事
鎮魂痍悼安眠を祈る
幾たびか島を尋ねて遺族感泣す
更に願う
島を守りて 平和の全きを
昭和六三年 十月吉日

九三式中間練習機(通称:赤とんぼ)

第二次世界大戦の中期以降、実用機の世界的な性能向上のため、本機を初等練習機として使用することも多くなってきた。陸軍でも、従来は中間練習機とされた九五式一型練習機から初等訓練を始めるようになる。そのほか、931空所属機は対潜哨戒任務の空母艦載機として運用された。戦争末期には制空権を握った敵軍に目立つことから機体上面は作戦機と同じ濃緑色に塗られるようになった。

さらに、本来の実用機の不足を補うため、当機がアルコール燃料でも稼動可能なことから、機体全体を濃緑色で塗装した上に後席に増槽としてドラム缶を装着し、機体強度と発動機推力の限界に近い250 kg爆弾を積み込んでの特攻に駆り出された。しかし、駆逐艦1隻(キャラハン)を撃沈する戦果を挙げるなど、敗色濃厚な戦局のなかでその基本性能の高さを示すことになった。

陸上機、水上機合計5,591機が生産され、この内半数近くは日本飛行機製であった。製造機数の多さと練習機という任務から、終戦時に残存していた機体数は海軍の機種の中では最も多かった。

戦後、インドネシア独立戦争にて九三式中間練習機はインドネシア共和国軍によって練習機等として広く使われた。だが、ほとんどはインドネシア旧宗主国のオランダ空軍による飛行場への爆撃により、1947年(昭和22年)年までにはほぼ破壊されてしまった。

要目 (K5Y1)

翼幅: 10.99 m
全長: 8.05 m
全高: 3.20 m
翼面積: 27.7 m2
自重: 1,000 kg
全備重量:1,500 kg
エンジン: 日立「天風一一型」空冷星型9気筒 340 hp × 1
最大速度: 214 km/h
巡航速度: 148 km/h
上昇率: 3,000 m まで 13.5 min
実用上昇限度: 5,700 m
航続距離: 1,017 km
乗員: 2 名
武装:
7.7 mm固定機関銃 × 1
7.7 mm旋回機関銃 × 1
30 kg爆弾 × 2または10 kg爆弾 × 6

ウィキペディアより

各社マスコミ報道

第三龍虎隊慰霊碑に献本/直木賞作家・古川さん 2015年7月30日 宮古毎日新聞

「君死に給ふことなかれ」を慰霊碑に献本し祭文奉読する古川薫さん=29日、平良二重越にある第三龍虎隊の慰霊碑 山口県下関市在住の直木賞作家、古川薫さん(90)が海軍の九三式中間練習機、通称「赤トンボ」で宮古島から特攻出撃した第三龍虎隊士を描いた作品「君死に給ふことなかれ」(幻冬舎)の献本式が29日、第三龍虎隊の慰霊碑(平良二重越)で行われた。古川さんは「第三龍虎隊の生きざま、散りざまを追った本をお供えして、鎮魂の祈りをささげる」と祭文を述べ、恒久平和を訴え。「(龍虎隊の7人は)青空で旋回しながらお礼をしていると思う。感激の1日」と語った。

献本式には古川氏の妻で歌人の森重香代子さんが「挽歌宮古島にて」と題した歌を詠み、山口県下関市で会社を経営している上田玲子さんがハーモニカで「赤とんぼ」を演奏した。

地元からは下地敏彦市長や宮古テレビの藤村明憲社長が出席し祝辞を述べた。下地市長は「戦争体験者の高齢化が進み、戦争の悲惨さを身を持って伝えられる方が少なくなっている」と指摘。その上で「一人でも多くの方がこの本に触れることにより、戦争の惨禍を風化させることなく、平和の尊さを再認識することにつながればと期待している」と語った。古川さんが献本した「君死に給ふことなかれ」は、宮古島から特攻出撃した神風特別攻撃隊・第三龍虎隊の物語。(2015年7月30日 宮古毎日新聞より)

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古川さん最新刊、宮古島特攻慰霊碑に献本 山口新聞 2015年7月30日(木)掲載

神風特攻隊第三次龍虎隊の慰霊碑の前で祭文を読み上げる古川薫氏=29日、沖縄県宮古島市平良 沖縄県の宮古島市平良二重越にある神風特別攻撃隊第三次龍虎隊の慰霊碑前で29日、下関在住の直木賞作家、古川薫氏(90)の近著『君死に給ふことなかれ』(幻冬舎)の献本式があった。 同書は太平洋戦争末期の1945年7月末に宮古島を飛び立った、最後の特攻隊とされる第三次龍虎隊7人の若者の生きざま、散りざまを追った作品。

献本式には慰霊碑を見守ってきた宮古島市の関係者ら約30人が参列。初めて同慰霊碑前に立ったという下地敏彦市長は「70年前のきょう、この宮古島から最後の特攻の若者が出撃した。前途有望な若者が死地に向かう心情を思うと心が痛む。その悲しい生きざまが一つの本になり慰霊碑に献上された。感慨深い。一人でも多くの人に読んでもらい、戦争の悲惨さが風化しないように伝えてほしい」とあいさつした。

古川氏は「皆さんの尊い命の代償として、今や日本列島は平和な戦後70年の夏の盛りを迎えている。この絢爛(けんらん)たる繁栄、乱を知ることのない平穏な日々は、皆さんが倒れた魂魄(こんぱく)がもたらすもの」とし、平和維持には「今を生きている者の努力はもちろん、死者たるあなた方の雄魂の助けをお借りしなければならない」と、70年前に沖縄の海に散った7人の名をあげながら祭文を読み上げ、著書を供えた。

古川氏の妻で歌人、森重香代子さんが「挽歌(ばんか)」と題して碑前で「片道の機に乗り独り月明き空を昇りてゆきし少年」「還らざりし少年の碑にすを張りて蜘蛛(くも)ゐず宮古島の空の明るさ」の2首を朗読した。献本式には、本紙に「木枯し帰るところなし」の連載で挿絵を担当したデザイナー三戸光顕氏ら約10人も下関から参列。うに甚本舗の上田玲子社長はハーモニカ演奏で「赤トンボ」を披露した。(2015年7月30日 山口新聞より)

70年前その日 7月28日「赤とんぼ」宮古島から特攻出撃 邂逅、手紙に未来託し 毎日新聞2015年7月28日 西部朝刊

<羅針儀下の貴方(あなた)の一文を発見し、最後のお別れを告げたくなりました。貴方が誠心整備された栄光の赤とんぼを操縦して行きます。かなわぬまでもやれるだけのことはやってまいります。 M・K>

そんな手紙を残し、M・Kこと川平誠・一等飛行兵曹(死後2階級特進し少尉)が1945年7月28日、沖縄県の宮古島から海軍の九三式中間練習機、通称「赤とんぼ」で特攻出撃し、沖縄の海に消えた。終戦間際のこの時期になると、赤とんぼのような練習機までが特攻機として使われていた。

手紙を受け取ったのは、山口県下関市在住の直木賞作家、古川薫さん(90)。当時20歳の古川さんは兵庫県篠山町(現篠山市)の航空通信連隊で通信員として従軍していたが、前年までは日立航空機羽田工場で戦闘機の製造、修理に携わっていた。主に手がけたのが赤とんぼだった。

最後に整備した赤とんぼの羅針儀下に「武運長久ヲ祈リツツ本機ヲ誠心整備ス」の文字をこっそりと刻み、自身の名を記した。練習機の赤とんぼで特攻に行くとは古川さんも思っておらず「何かを残したいという、ほんのいたずら心だった」と振り返る。川平さんからの手紙は、そんな古川さんへの返信だった。

手紙を下宿先に託した5日後、川平さんに出撃の時が訪れた。

7月28日午後10時過ぎ、月明かりを頼りに6機の神風特別攻撃隊「第三次龍虎隊」は宮古島を飛び立った。米軍の記録によると、日付をまたいだ29日午前0時40分、慶良間(けらま)諸島沖で哨戒中の米駆逐艦キャラハンが、このうち1機の突撃を受け、未明に乗員47人と共に沈没した。体当たりに成功したのは川平さんか別の1機のどちらかだった。だが古川さんはこの時の戦果を「奇跡としか言いようがない」と語る。赤とんぼは、木枠に布を張った翼の複葉機で、スピードも零戦の半分以下しか出ない。しかも、本来は60キロ搭載の機に4倍以上の250キロ爆弾を積んでの出撃だった。

2014年5月、古川さんは初めて宮古島を訪れ、第三次龍虎隊の慰霊碑の前に立った。碑は、隊員らを間近で見送り、自身も同じ運命をたどるはずだった第四次龍虎隊の笹井敬三さん(故人)が1995年、自費で建立したものだ。

本来、出撃情報は軍事機密であり、家族にも明かしてはいけない。だからこそ川平さんは匿名で手紙を託した。それゆえに、古川さんがM・Kさんは川平さんだと突き止めるのは戦後50年以上たってからだった。その後、10年以上かけた調査の末、ようやくここにたどり着いた。碑の前で古川さんは万感の思いを込め、語りかけた。「M・Kさん、ようやく会えましたね」

古川さんは今年7月、川平さんとの邂逅(かいこう)を基に赤とんぼ特攻隊がテーマの小説「君死に給ふことなかれ」(幻冬舎)を出版した。「戦争という不条理の中で、不条理な運命で死んでいった同世代の彼らの生を書き残すことは生き残った者の使命だと感じた」と話す。

川平さんは古川さん宛ての手紙をこう結んでいた。

<俺は消えます。貴方の未来に祝福を。その未来のなかに俺の時間も少しばかり入れておいてください>

古川さんは29日、再び宮古島を訪れ、新著を慰霊碑にささげる。【上村里花】(次回は8月にシベリア抑留の話を予定しています)(2015年7月30日 毎日新聞より)

赤とんぼ悲話2009年2月17日 琉球新報

宮古島市平良の市街地から少し離れた丘に旧日本軍戦没者の慰霊碑が幾つかある。その中に神風特攻隊第三龍虎隊の慰霊碑がある。しかし宮古から神風特攻隊が出撃したことはあまり知られていない。それもそのはず、実はこの特攻隊、本拠地は台湾の虎尾だ。

昭和20年7月28日早朝、神風特攻隊第三龍虎隊8機は台湾・虎尾を出発。新竹、宜蘭を経由して石垣で給油し宮古に降り立った。この特攻隊、何故(なぜ)石垣から出撃せず、わざわざ宮古に降り立ったのか。それには訳があった。彼らの乗った特攻機は練習用の布張りの複葉機、通称「赤とんぼ」。粗末な練習機に250キロ爆弾を載せて長距離飛行するのは厳しく、最短距離から出撃する必要があった。しかも、作戦は月夜に限られた。

宮古到着後夜11時。2度目の別盃(べっぱい)式を終えたうら若き隊員たちは、雲一つ無い月明かりの中、沖縄近海に群がる連合艦隊に向け飛び立った…。話はそこで終わるはずだった。が、後がある。離陸直前、1機の飛行機のタイヤがパンク。出撃は中止された。他の7機はそのまま飛び立ったが、2機がエンジン不調を理由に戻ってきた。そのうちの1機は滑走路脇の畑に不時着大破。隊員は重傷を負った。整備兵たちは不時着した飛行機の車輪を、パンクして飛ばなかった飛行機に移した。一旦、出撃を免れたはずのパンクした飛行機の隊員は、再び出撃する羽目になった。翌日、その隊員はベッドに横たわる不時着の隊員に「臆病(おくびょう)者。恨んでやる」と言い残し、月夜の闇に消えた。

不時着の特攻兵は生還し、80歳余で最近亡くなった。彼は生前、宮古島を訪れることはなかった。彼は自宅の庭に慰霊碑を建て、7人の神風を供養し続けた。(砂川健次、宮古テレビ取締役報道部長)(2009年2月17日 琉球新報より)

その後の戦闘6月3日以降

主に海軍により、特攻機を含む沖縄県方面への航空攻撃も続けられた。7月28日には九三式中間練習機の体当りで駆逐艦「キャラハン」を沈めているが、これは特攻による最後の撃沈戦果であった。8月12日には戦艦「ペンシルベニア」を雷撃機による通常攻撃で損傷させた。8月15日の玉音放送後にも、菊水作戦の指揮をとった宇垣纏海軍中将が部下を引き連れて沖縄方面へ特攻出撃している。陸軍の第8飛行師団隷下飛行第10戦隊の一〇〇式司偵は、沖縄方面に対する偵察飛行を8月に至るまで継続している。

また海軍は、沖縄とフィリピン、ウルシー、グァムといったアメリカ軍泊地との連絡路に対し回天特攻「多聞隊」の6隻の伊号潜を出撃させていたが、内「伊53潜」が勝山淳中尉の搭乗する回天で、7月24日に沖縄よりフィリピンに航行中の護衛駆逐艦「アンダーヒル」を撃沈、また7月29日には「伊58潜」がテニアン島よりフィリピンに向かって航行中であった重巡「インディアナポリス」を撃沈している。

8月15日に終戦し、抵抗を続けていた歩兵第32連隊も8月29日にポツダム宣言の受諾を知り停戦する。9月2日に日本政府が降伏文書に調印。9月7日に南西諸島の軍を代表して第28師団司令官納見敏郎中将と高田利貞少将、加藤唯雄海軍少将の3名が日本軍の沖縄戦降伏文書に調印し、ジョセフ・スティルウェル米国陸軍大将が日本軍の降伏を受諾し署名することで、沖縄戦が公式に終結する。(ウィキペディアより

空華之塔(くげのとう)について

太平洋戦争は沖縄を天王山として終結しました。例え悲しい敗戦に終わったとは申せ、地球の半ばを覆う広大な戦域を舞台として優秀な連合軍の空軍を対手に戦い抜いた我が航空勢の健闘は国民は申すに及ばず世界の人々の・・・>>>つづき空華之塔 Okinawa yoluyukai

アクセス

沖縄県平和祈念公園内に空華之塔はあります。那覇から平和記念公園は約22kmあります。沖縄本島の最南部糸満市摩文仁ありバス、タクシーもご利用できます。・・・>>>つづき案内地図 Okinawa yoluyukai

沖縄航空史

琉球王「尚 穆」(しょうぼく)の時代36年の頃、首里士族で花火師の安里周当(あさとしゅうとう)が凧(たこ)用の飛翔体で、南風原村(はえばるそん)字津嘉山(あざつかざん)部落の自宅および付近の山野で飛行したとの逸話伝説あり。・・・>>>つづき飛び安里Photo:南風原町観光サイト
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