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「特攻の歴史」体現する鶉野飛行場 米英が恐れた最新鋭戦闘機「紫電改」も…戦後70年経て再評価(産経WEST 2016.5.24)

最新鋭戦闘機「紫電改(しでんかい)」が生産された鶉野飛行場に隣接する川西航空機姫路製作所 最新鋭戦闘機「紫電改(しでんかい)」が生産された鶉野飛行場に隣接する川西航空機姫路製作所(上谷昭夫さん提供)

「鶉野(うずらの)飛行場」(兵庫県加西市)をご存じだろうか。第二次大戦中に姫路海軍航空隊の搭乗員を養成するために建設され、多くの特攻隊員が飛び立った拠点だ。戦時中の日本の飛行場といえば、特攻基地として知られる鹿児島県の「知覧飛行場」や「鹿屋飛行場」が頭に浮かぶ人も多いかもしれない。実は鶉野飛行場も、隣接する組立工場で日本海軍が本土決戦の切り札として投入した最新鋭戦闘機「紫電改(しでんかい)」が生産された歴史的背景に加え、滑走路や防空壕(ぼうくうごう)など多くの遺構がほぼ完全な姿を留める全国でもまれな旧軍施設。戦後70年を経て戦争体験者が少なくなる中、その歴史的価値が見直されているのだ。加西市は国から滑走路の払い下げを求めて「戦争史跡公園」として整備を進めるなど、戦争を学ぶ拠点として注目を集めている。

突然の特攻隊結成

「本日、全国の海軍実用機競艇演習航空隊を持って第十航空艦隊を編成し、その所有全機をあげて特別攻撃隊とする」

《昭和20年2月8日朝。姫路海軍航空隊の司令、露木専治(つゆき・せんじ)大佐の訓示が響き渡った。突然の全員集合。思い思いの休日を過ごしていた同隊の訓練生らは鶉野飛行場に集められ、直立不動で訓示を聞いた。米軍との本土決戦に対抗するため、神風特攻隊「白鷺(はくろ)隊」が編成されることになった》

戦史研究家で、飛行場跡を戦争遺産として残す活動に取り組む「鶉野平和祈念の碑苑保存会」メンバーの上谷昭夫さん(77)によると、この日を境に鶉野飛行場の様相は一変した。

《隊員たちは「特攻隊に志願を希望する者は翌日までに飛行長に申し出るように」と言い渡された。訓示から2日後の2月10日、約100人の特攻隊員の名前が発表された》

もともと、鶉野飛行場は昭和18年、戦闘機などの搭乗員を養成する訓練基地として整備された。しかし、この後はそれまでの通常訓練から特攻訓練に切り替わり、昼夜を問わず過酷な訓練の日々が始まったのだ。上谷さんは「鶉野飛行場は海軍航空隊の縮図」と語る。「戦況が悪化し、全国のさまざまな航空隊に搭乗員の養成命令が出た。米軍に勝つために戦闘機の製造が急がれ、その流れで特攻隊が編成されるようになった」

姫路海軍航空隊の格納庫前で出撃を待つ艦上攻撃機「天山」=鶉野飛行場姫路海軍航空隊の格納庫前で出撃を待つ艦上攻撃機「天山」=鶉野飛行場(上谷昭夫さん提供)

わずか1年足らずで完成

上谷さんによると、鶉野飛行場は17年9月、旧国鉄の法華口(ほっけぐち)駅が近くにあり、兵隊の移動や物資輸送に便利なことなどから、海軍航空隊建設の候補地となった。1日3千人以上が飛行場建設に従事し、婦人会や学徒動員の学生もほとんど無償で参加した。完成まで10年かかるといわれたが、わずか1年足らずで成し遂げられた。当時、搭乗員の教育は学校ではなく、各航空隊に練習用の飛行機が配備されて実施していた。兵庫県内では唯一、鶉野に置かれた姫路海軍航空隊が練習航空隊としての任務にあたることになった。姫路海軍航空隊の初代司令に露木大佐が着任。訓練生が所属する飛行科をはじめ、警備科や通信科、航海科、主計科などが置かれた。航空隊全体で多いときには約1千人が所属していた。大戦末期になると、本土決戦の危機が迫り、日本国内にあった飛行場の滑走路は延長され、飛行機を隠すための施設や耐弾施設の増築が行われた。鶉野飛行場も例外ではなく、20年2月ごろ、幅45メートル、長さ800メートルの滑走路を幅60メートル、長さ1200メートルに拡張し、現在の姿に近い状態になった。

鶉野飛行場跡鶉野飛行場跡(上谷昭夫さん提供)

「紫電改があと2年早く完成していれば…」

大戦末期、日本の敗戦がほぼ濃厚となる中、本土防空に獅子奮迅の働きをみせ、米英を恐れさせた戦闘機があった。日本海軍の主力艦上戦闘機として、大戦初期の太平洋の空を支配した零式(れいしき)艦上戦闘機(零戦=ぜろせん)に代わる日本海軍最後の戦闘機「紫電改」だ。紫電改は、日本海軍が本土決戦の切り札として投入した最新鋭戦闘機で、開発は川西航空機(現・新明和工業=兵庫県宝塚市)が担った。零戦の約2倍の馬力でスピードや上昇に優れ、零戦を上回る旋回能力を持っていた。「紫電改があと2年早く完成していれば、戦局は違ったものになった」ともいわれたという。川西航空機は当初、兵庫県西宮市の鳴尾工場で、紫電改の前身となる「紫電」の製造を行っていた。

だが、日本海軍からの増産命令に生産が追いつかなくなっていた。慢性的な物資不足に加え、鳴尾工場では完成した飛行機をテスト飛行させるための場所がなかったからだ。そこで鶉野飛行場を利用することになり、飛行場と隣接する「川西航空機姫路製作所鶉野組立工場」がつくられた。

「1日も早く、1機でも多く作って、第一線へ送ることが急務」

戦局が深刻になり、米軍の戦略爆撃機「B29」による爆撃で、全国の工場が壊滅的な被害を受けていた中での作業だった。飛行機に不具合があれば徹夜で検査にあたり、空襲警報が出れば防空壕へ避難するという繰り返しの毎日だった。

「この戦闘機があれば祖国の危機を必ず救えるはずだ」

最新鋭戦闘機「紫電改(しでんかい)」を生産する川西航空機姫路製作所で働く工員たち最新鋭戦闘機「紫電改(しでんかい)」を生産する川西航空機姫路製作所で働く工員たち(上谷昭夫さん提供)

そんな希望を胸に川西航空機の作業員たちは紫電改の生産に心血を注いだ。紫電改の生産は終戦まで続けられ、最終的に、紫電466機、紫電改44機もの機体がつくられた。これらは全国に配備され、多くの若者が搭乗、沖縄戦に飛び立っていくことになった。

21機が特攻、63人が戦死

日本海軍は昭和17年6月のミッドウェー海戦を境に、国力で勝る米軍の進攻を前に敗北を重ねていく。戦局が進むにつれ、兵力の減少と搭乗員の技能が低下。そこへ海外からの輸入に頼っていたガソリンなどの物資不足が重なり、戦局悪化に拍車をかけた。「大きな戦果を挙げるには、体当たり攻撃を仕掛けるしかない」といった声が軍部の中で上がり始め、19年10月のレイテ沖海戦では神風特攻隊が編成され、敵艦への体当たり攻撃が繰り返された。そんな中、姫路海軍航空隊でも神風特攻隊「白鷺隊」が編成されたのだ。

隊員たちは97艦上攻撃機に乗り込み、瀬戸内海に浮かぶ島や航行する漁船を敵艦に見立てて、角度をつけて急降下する特攻訓練を重ねた。沖縄戦への参戦が決まった20年3月23日。17~38歳の隊員は燃料に限りがあることから、串良基地(鹿児島県)を経由し、沖縄に向かうことに。20年4~5月、計5回にわたって出撃し21機が敵艦に突入、63人が戦死したとされている。「鶉野飛行場を知ることが、日本の戦争を知ることにつながる」。上谷さんの切なる思いである。

「戦争を風化させない」

防衛ジャーナリストの桜林美佐氏は、鶉野飛行場の“生い立ち”に日本の防衛産業を重ねる。一方、鶉野平和祈念の碑苑保存会会長の三宅通義(みちよし)さん(81)が強調するのは、戦争を学べる歴史遺構としての価値だ。「約1200メートルの滑走路が今もそのままで、当時の面影を残した飛行場跡は全国的にも珍しい」同保存会は平成11年、元特攻隊員や地元の区長ら有志のメンバーによって発足した。26年10月には鶉野飛行場の滑走路横に資料館を開館。白鷺隊の隊員がしたためた遺書を掲載した冊子や紫電、紫電改の18分の1の模型などを展示し、開館以降、徐々に来館者数を伸ばし、今では年間約1500人が足を運ぶ。

最新鋭戦闘機「紫電改(しでんかい)」レプリカ最新鋭戦闘機「紫電改(しでんかい)」レプリカ(上谷昭夫さん提供)

こうした活動も後押しとなり、市民からは「戦争を風化させないために飛行場を残して」といった声が数多く寄せられるようになった。そして市は27年、国から滑走路約5.5ヘクタールの払い下げを受けることを念頭に、「戦争史跡公園」として飛行場跡の整備を進めることを決定。31年度に一般公開する方針を示した。公園が戦争を学ぶ拠点として十分に活用されるようにと、歴史資料展示の施設も建設される予定だ。戦後70年が過ぎ、再評価されつつある鶉野飛行場。三宅さんは「兵庫県内でも特攻が出撃し、戦闘機が製造されていた事実はあまり知られていない。ぜひ鶉野飛行場に足を運んでもらい、特攻隊として死んでいかなければならなかった若者がいたことを知ってもらいたい」と話した。

(産経WEST 2016.5.24より)

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