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八幡空襲で「屠龍」はB29に体当たりし2機を撃墜した…“翼”を奪われた陸軍航空部隊の真実、エリート技術将校の証言(上)産経新聞2016.8.19

旧陸軍の二式複座戦闘機「屠龍」(梅田さん提供)旧陸軍の二式複座戦闘機「屠龍」(梅田さん提供)

71回目の終戦日を迎えた。戦後70年の節目となった昨年は第二次世界大戦を題材にした映画が相次いで公開されたが、今年はもの静かだ。戦後70年というが、捕虜などになり翌年、日本に帰還した兵士にとっては今年が戦後70年ではないか。実際、そんな元軍人は少なくない。旧陸軍の二式複座戦闘機「屠龍(とりゅう)」の部隊に所属した航空技術将校、梅田春雄さん(95)はその一人。陸軍航空士官学校で学び航空部隊に配属されたが、南洋の基地に着任し愕然とした。「部隊で飛べる屠龍が2機しかなかった。米軍の空襲で壊滅状態だったんです」。転戦する島を追うように米軍の攻撃は続き同僚の多くが戦死した。「もう自分しか語ることができないかもしれない…」。帰還から70回目の夏、梅田さんが“翼を奪われた”陸軍航空部隊の壮絶な戦史を語った。(戸津井康之)

戦闘機・爆撃機・偵察機・指揮機…多用途で期待された「屠龍」

「屠龍は当時、陸軍で採用されたばかりの新型の複座戦闘機。大きな期待を担った機体でした」

昭和16(1941)年、陸軍航空士官学校に入学、航空技術将校としての教育を受け、18年5月、陸軍少尉となり同9月、ニューギニアのウェワクの基地に転戦していた飛行第13戦隊第3中隊に配属された梅田さんはこう振り返る。同隊は屠龍の精鋭部隊だった。

17年に陸軍が採用した屠龍は、世界で名を馳(は)せた旧日本海軍の戦闘機「ゼロ戦」などの陰に隠れ、現在ではその戦果が語られることは少ないが、2基のエンジンを搭載した双発複座機(ゼロ戦は単発機)として、その大きな機体、大出力、複座を生かし、戦闘機としてだけでなく、爆撃、偵察、指揮機など多用途での活躍が期待された陸軍機だった。

“日本一の精鋭部隊”の誇り

屠龍は南洋でも運用されたが、日本本土に配備された同機を有する防空部隊は、米軍爆撃機B29などを迎撃する“日本一の精鋭部隊”と称されていた。

八幡製鉄所など日本の基幹産業があった北九州は、B29が陸上基地を拠点として行った初めての日本本土空襲(昭和19年6月16日)があった地域だが、ここでも屠龍の壮絶な戦果が記録されている。

同年8月20日の八幡空襲の際、迎撃のため飛び立った野辺重夫軍曹機(後部座席の同乗者・高木伝蔵兵長)は、B29への体当りを敢行、1機目の破片が後続のB29にもあたり、2機を同時に撃墜している。

命を懸けて北九州の市民を守った2人を顕彰する慰霊碑が、今も同市内の丘の上にひっそりと建っている

翼を奪われた航空部隊

梅田さんは大正10年、東京都生まれ。父が海軍軍人だった梅田さんは迷わず軍人の道を選び、陸軍予科士官学校から陸軍航空士官学校へと進んだ。陸軍少尉となった梅田さんが配属されたのは兵庫県・加古川を編成地とする飛行第13戦隊だった。

陸軍少尉に任官した当時の梅田春雄さん(昭和18年)陸軍少尉に任官した当時の梅田春雄さん(昭和18年)

「私が配属された当時、13戦隊は加古川からウェワクへと移動していました。私は爆撃機などを乗り継いで島の基地を目指しました」

18年8月、東京・立川の飛行場から爆撃機に乗ってマニラからダバオ、アンボンなどを経由して、9月、ニューギニアのウェワクの基地の飛行場に着任した。

だが、そこで梅田さんが見た光景は壮絶だった。

梅田さんがウェワクに着任したとき、同基地に数十機集められていたはずの屠龍のほとんどが空爆により大破。「まともに飛行できる屠龍は1、2機しかありませんでした」

航空技術将校となった梅田さんが初めて着任した実戦部隊は“戦闘機を失った航空部隊”だったのだ。しかし、中破した故障機などを修理し、梅田さんたちは希望をつないだ。=続く


八幡空襲で「屠龍」はB29に体当たりし2機を撃墜した…“翼”を奪われた陸軍航空部隊の真実、エリート技術将校の証言(下)産経新聞2016.8.22

「飛べる機体が2機しかない…」。陸軍航空士官学校で学び航空技術将校となり、陸軍が採用した新型の二式複座戦闘機「屠龍(とりゅう)」の部隊に配属。爆撃機などを乗り継いで日本からニューギニアのウェワクの基地に到着した梅田春雄さん(95)の目の前に広がる光景は凄惨(せいさん)だった。「空襲後の滑走路は穴だらけ。飛べる屠龍は2機のみ。大破した機体はその穴を埋めるために使われたのです」。“翼を奪われた”陸軍航空部隊で南洋の島を転戦、生死の境をくぐり抜けて生還した元航空技術将校の証言を、71回目を迎えた終戦の夏、現代の日本人はどう聞くだろうか。(戸津井康之)

新型戦闘機への期待と不安

双発機で機体が大きな屠龍は、その搭載能力を生かし、高度な航法装置や強力な通信機などを積載していた。偵察、爆撃、指揮…。2人乗りの機体は戦場において、さまざまな任務が期待されていたという。

「射撃に無線、航法、ときに爆撃…。私の本職は航空技術でしたが、多用途に対応するために一通りの訓練を受けていました」。梅田さんは屠龍の後部乗員となり、南洋の上空を飛んだという。

セレベス島(現スラウェシ島)で従軍記者が撮ってくれたという梅田春雄さんの写真(昭和19年末頃)セレベス島(現スラウェシ島)で従軍記者が撮ってくれたという梅田春雄さんの写真(昭和19年末頃)

「隊長機の後部座席に乗り、慣熟飛行や船団掩護にも就きました。地形を覚えるためでもありました。その前の隊長には屠龍の陸軍への採用を決めた際の審査主任もいたんです」と梅田さんは語った。

 日本本土で研究開発され、陸軍に採用されて間もない屠龍の操縦、機体の性能などを見極めるために、審査主任を務めた士官が自ら南洋の基地で隊長を務めていたのだという。

日本の船団を守れ! しかし飛べる機体は…

本土では爆撃機などの迎撃任務で活躍した屠龍だが、南洋の島での主な任務は船団掩護だった。

「島から島へ物資を輸送する艦隊を上空から護衛するのが任務です。しかし、戦地で私が実際に屠龍に搭乗できたのは数回だけでした」

屠龍の部隊に航空技術将校として配属。南洋の戦闘で、その多様な能力を発揮させることが、陸軍航空士官学校で厳しい教育を受けた梅田さんに課せられた使命だった-。それなのに、着任した基地には飛べる機体が数機しかなかった。補充されても、せいぜい多いときで5~6機だったという。梅田さんの無念さは計り知れない。

その後も続いた船団掩護の任務では、乗員が交代で屠龍に乗ることになったが、機体数は限られている。梅田さんの搭乗の機会は少なかったという。

空襲に艦砲射撃…。米軍の攻撃は日ごとに激しさを増していった。

「私が所属した隊長は次々と戦死し、5人も代わりました」と、その過酷な戦闘状況を梅田さんは明かす。

終わらなかった戦い 捕虜となり〝死の島〟へ

ニューギニア、ラバウルでの戦闘は激しさを増した。南洋の島々を転戦する梅田さんを追うように米軍の攻撃は続いたという。

「私が島を移動する度に基地は攻撃され、配備されていた戦闘機、爆撃機などは次々と大破。陸軍はほとんどの航空戦力を失っていきました。仕方なく島から島へ船で移動するのですが、その船団も狙われ、島に着く直前に撃沈され、目の前で大勢の仲間を失ったこともありました」

昭和20年8月、シンガポールで終戦を迎えた梅田さんは同年10月、捕虜として無人島のレンバン島へと送られる。

「レンバン島といえば第1次世界大戦でドイツ軍捕虜約2000人が連行され、全員、マラリアで死んだ島です」

梅田さんたちは草木も生えない“死の島”と呼ばれた無人のジャングルを切り開いていった。

道路構築隊、家屋建築隊、農耕隊などを作り、何もない不毛の地に街を築き、生き抜く活路を見いだしていったという。

ラバウル、ニューギニア…語り継ぐ戦史

翌21年4月、日本軍捕虜にようやく帰国命令が出され、5月、船で名古屋港に着き解散。梅田さんはようやく故郷・東京へたどり着く。「東京は想像していた以上に一面焼け野原。私の実家も空襲で焼けて跡形もなかったです…」

帰還後、梅田さんは、ラバウルやニューギニアで戦った陸軍航空部隊の元軍人、遺族らを訪ね歩き証言を集め、戦史「幻(まぼろし) ニューギニア航空戦の実相」(ラバウル ニューギニア陸軍航空部隊会編)の編集に携わった。

95歳となった今も同期生たちから戦史の証言を集めている梅田春雄さん=東京都内95歳となった今も同期生たちから戦史の証言を集めている梅田春雄さん=東京都内

この戦史の中で挿絵を担当した一人が、人気漫画家、松本零士さん。松本さんの父もまた陸軍航空部隊に所属。テストパイロットなどを務め、大戦末期には屠龍に乗っていたという名操縦士だった。

昭和18年5月、梅田さんとともに卒業した陸軍航空士官学校の同期生「56期」は計618人。だが、わずか2年の戦闘でその半数以上の計357人、約58%もの若者たちが戦死している。


現存機

二式複座戦闘機(にしきふくざせんとうき)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の戦闘機。キ番号(試作名称)はキ45改。愛称は屠龍(とりゅう)。略称・呼称は二式複戦、二式双戦など。連合軍のコードネームはNick(ニック)。開発・製造は川崎航空機。二式複戦の現存機としては、アメリカの国立航空宇宙博物館(スミソニアン国立航空宇宙博物館)別館であるスティーブン・F・ウドヴァーヘイジー・センターが収蔵する丙型丁装備(キ45改丙)ないし丁型(キ45改丁)キの胴体部分が唯一となる。また二式複戦が装備していたハ102とプロペラが、戦後に茨城県大洗町沖の海底から引き上げられ水戸陸軍飛行学校・常陸教導飛行師団跡地である水戸つばさの塔公園にて展示されている。(wikipedia

参考文献

渡辺洋二『双発戦闘機「屠龍」 一撃必殺の重爆キラー』(文春文庫、2008年)


空華之塔(くげのとう)について

太平洋戦争は沖縄を天王山として終結しました。例え悲しい敗戦に終わったとは申せ、地球の半ばを覆う広大な戦域を舞台として優秀な連合軍の空軍を対手に戦い抜いた我が航空勢の健闘は国民は申すに及ばず世界の人々の・・・>>>つづき空華之塔 Okinawa yoluyukai

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沖縄航空史

琉球王「尚 穆」(しょうぼく)の時代36年の頃、首里士族で花火師の安里周当(あさとしゅうとう)が凧(たこ)用の飛翔体で、南風原村(はえばるそん)字津嘉山(あざつかざん)部落の自宅および付近の山野で飛行したとの逸話伝説あり。・・・>>>つづき飛び安里 Photo:南風原町観光サイト

寄付について

戦後70年が過ぎ会員の高齢化と会員数の減少に伴い、維持管理の費用もそれぞれが持ち出しという状況になっています。先の大戦で勇敢に戦った英霊の功績を後生に残したい思いでなんとか維持しいるのが現状と申せましょう。航空関係者のみならず多くの日本の方々に心よりご支援の程御願い申し上げます。 Okinawa yoluyukai


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