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特攻機護衛の任務、「腕で護れなかったら身をもって守れ」-神雷部隊・元零戦パイロットの証言(上)産経新聞west2016.11.9

復元された零戦が今年1月、鹿屋の空を飛んだ。野口さんたち神雷部隊にとってゆかりの地で…=平成28年1月27日、鹿児島県鹿屋市の海上自衛隊鹿屋航空基地(代表撮影)復元された零戦が今年1月、鹿屋の空を飛んだ。野口さんたち神雷部隊にとってゆかりの地で…=平成28年1月27日、鹿児島県鹿屋市の海上自衛隊鹿屋航空基地(代表撮影)

「零戦の操縦士が上空で風防を開けることなどないですよ」。航空映画で演出上、こんなシーンが描かれることは少なくないが、元零戦パイロットの野口剛さん(91)は苦笑しながらこう否定した。今から72年前の昭和19年11月、「海軍神雷部隊」が正式に発足した。特攻のために開発された航空機「桜花」と同機を搭載して運ぶ一式陸上攻撃機、これを掩護する零戦で編成された部隊。特攻隊である。野口さんは神雷部隊に所属。翌20年3月21日、初の特攻「第一回神雷桜花特別攻撃隊」の一員として零戦で出撃した。ほとんどの桜花は敵艦隊に近づく前に、一式陸上攻撃機とともに撃墜されていったという。だが、その後、幾度も桜花の掩護で出撃した野口さんはこう断言した。「一機の桜花が軍艦に体当たりし、黒煙が噴き上がる様子を確かに目撃した」と。(戸津井康之)

憧れの零戦パイロットへ

「幼い頃から飛行機が好きで…。だからパイロットになりたかったんです」

大正14年、東京生まれ。空に憧れる“飛行機少年”だった野口さんは、民間の飛行学校へ入学したかったが、「入学金などが高額でとても払えない。それならば、と予科練に行くことを決めたのです」と言う。

陸軍基地の兵士が撮影してくれたという野口剛さんの写真=昭和20年、宮崎・都城(野口さん提供)陸軍基地の兵士が撮影してくれたという野口剛さんの写真=昭和20年、宮崎・都城(野口さん提供)

昭和16年5月、予科練習生となった野口さんは茨城県の土浦海軍航空隊に入隊。厳しい飛行訓練を受けて零戦パイロットとなった野口さんは全国の基地を転戦する。

「海軍は厳しかった? たとえば、階段をだらだら歩いていたら上官から怒られます。皆、1段、2段飛ばしで階段を駆け上がっていきます。清掃に身だしなみ。万事、乱れていたら怒られます。そんな日常生活でしたが、厳しいとは思いませんでしたよ」

二度と戻ってはこれない-それでも特攻隊「神雷部隊」に志願

19年4月、野口さんは操縦教官として筑波航空隊に配属される。「まだ19歳でした。上官や先輩たちが次々と戦死し、私の上の世代のパイロットがいなくなっていましたからね…」

予備学生の操縦教官を務め、数カ月が過ぎた頃、「神雷部隊ができるという話を聞かされました。上官から、『志願者はいるか。行きたい者はこの紙に丸を書いて出しなさい』と言われました。『ただし、行ったら最後、戻ってはこれない』と。だから『両親はいるか、兄弟はいるか、長男はだめだ…』など、いろいろ家族について聞かれましたね」と野口さんは苦笑しながら振り返った。

それを聞いて野口さんは悩まなかったのだろうか?

野口さんが配属されたのは第721海軍航空隊。別称「神雷部隊」。零戦パイロットとしての野口さんの任務は、桜花を搭載した一式陸上攻撃機を目的地まで護衛することだった。

「分隊長に言われたのが、『腕で神雷を護(まも)れなかったら、身をもって守れ』でした。目的地までは何としても護衛しなければ…」と野口さんは決意を固めたという。

神雷部隊を激励にきた連合艦隊司令長官の豊田副武大将(前列中央)と撮った記念写真。後2列目左から4人目が野口剛さん=昭和19年12月(野口さん提供)神雷部隊を激励にきた連合艦隊司令長官の豊田副武大将(前列中央)と撮った記念写真。後2列目左から4人目が野口剛さん=昭和19年12月(野口さん提供)

突然の出撃命令 数時間後には離陸

特攻を志願した野口さんについに運命の日がやってくる。

20年3月21日、初めての特攻「第一回神雷桜花特別攻撃隊」の出撃命令が下されたのだ。

野口さんはこう明かす。「私が出撃命令を聞いたのは当日の朝9時頃でした」

パイロットたちが命令を聞いたのは当日、しかも命令から数時間後に野口さんは零戦で離陸している。

「後で聞いてみると、神雷攻撃の出撃命令は事前に出ていたようですね…」と野口さんは淡々と振り返った。戦場が日常だった野口さんたちパイロットたちにとって、特攻の覚悟はいついかなるときもできていたのだという。

「離陸直前、改めて上官から『自分の腕で護れなかったら身をもって守れ』と言われました」

同日正午前、「神雷部隊」は出撃開始。鹿屋基地を離陸し、上空で編隊を組んだ一式陸上攻撃機の編隊を、野口さんたちが乗る零戦が護衛しながら目的地を目指した。一式陸上攻撃機の下には桜花が搭載されていた。

つづく


桜花

桜花(おうか)は、日本海軍が太平洋戦争中に開発した特殊滑空機。特攻兵器として開発され、実戦に投入された。

Japanese Ohka at the Yasukuni Shrine. Note that I've deleted a guy in the bottom left corner of the photo. This is a replica of the Yokosuka MXY7 Ohka Model 11.Japanese Ohka at the Yasukuni Shrine. Note that I've deleted a guy in the bottom left corner of the photo. This is a replica of the Yokosuka MXY7 Ohka Model 11.

ウィキペデアより抜粋
アメリカ軍はマナート・L・エベールのオールトン・E・パーカー艦長と副長と砲術長に25Pにもなる長文の詳細な戦闘記録を作らせ、TOP-SECRET扱いとし徹底的に分析している。その報告書には「それは今まで目にしたどんな飛行機よりも速かった。プロペラやエンジンは見かけられなかったので、この機体はジェットかロケットを推力にしているものと思われた。」と記述してあった。[153]マナート・L・エベールと同日に桜花が命中しながら、あまりの威力に艦体を突き抜けた為、撃沈を免れたスタンリー (駆逐艦) (英語版)の砲術長は「このミサイルが艦艇装備の自動火器の射程距離範囲内まで接近したなら、何物もその突進を停止させたり、その方向を変換させるのは無理である」と述べている。[154]

その設計思想と費用対効果の低さにより今日の日本では極めて評価が低い桜花であるが、鹵獲した桜花の調査結果や、また被害艦の戦闘報告を詳細に検証した当時のアメリカ海軍は、桜花をもっとも危険な兵器で、アメリカ軍の砲手やパイロットらにとってこれまでに遭遇したもっとも手におえない攻撃目標であると考えた。[155]『BAKA』と蔑んでみても、アメリカ軍艦隊全体に広まった恐怖は決して和らぐことはなかった[156]。
ウィキペデアより


空華之塔(くげのとう)について

太平洋戦争は沖縄を天王山として終結しました。例え悲しい敗戦に終わったとは申せ、地球の半ばを覆う広大な戦域を舞台として優秀な連合軍の空軍を対手に戦い抜いた我が航空勢の健闘は国民は申すに及ばず世界の人々の・・・>>>つづき空華之塔 Okinawa yoluyukai

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沖縄航空史

琉球王「尚 穆」(しょうぼく)の時代36年の頃、首里士族で花火師の安里周当(あさとしゅうとう)が凧(たこ)用の飛翔体で、南風原村(はえばるそん)字津嘉山(あざつかざん)部落の自宅および付近の山野で飛行したとの逸話伝説あり。・・・>>>つづき飛び安里Photo:南風原町観光サイト
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