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訓練中にエンジン故障、教官が見せた片肺神業飛行“天女の舞”護衛なき重爆特攻「菊水隊」の真実(上)産経新聞west2016.12.1

フィリピンのクラークフィールドへ向かう飛行第95戦隊=昭和19年11月、バシー海峡上空(中村真さん提供)フィリピンのクラークフィールドへ向かう飛行第95戦隊=昭和19年11月、バシー海峡上空(中村真さん提供)

「呑龍」元パイロット 中村真さんの証言

「大空から複葉機が牧場に着陸し、パイロットがヒロインに郵便物を手渡すと、白いマフラーをなびかせながらさっそうと離陸していく…。格好いいなあと思いましてね」。元陸軍百式重爆撃機「呑龍(どんりゅう)」パイロット、中村真(まこと)さん(93)は、幼い頃に映画「進軍」を見て、パイロットになる決意を固めたと言う。映画のパイロットは当時の人気俳優、鈴木傳明(でんめい)、ヒロインを田中絹代が演じた。民間の乗員養成所で操縦士資格を取得した中村さんは国の決まりで陸軍の飛行学校へ進み下士官候補生の課程を終了。その後、除隊し晴れて旅客機のパイロットに-となる予定が、「陸軍に行って重爆撃機のパイロットになれと言われまして…」。大空へ懸けた中村さんの青春は戦争という運命の中で翻弄された。(戸津井康之)

旅客機の夢は重爆へ

「陸軍の飛行学校を卒業したら、そこで軍隊生活は終わり。いよいよ国際線パイロットだぞ、と思っていたら、卒業式当日に『明日からお前は陸軍に現役編入だ』と伝えられました」

中村さんは大正12年、福島県郡山市生まれ。昭和17年、仙台の操縦士養成所を卒業後、岐阜の陸軍飛行学校を経て、静岡・浜松の飛行第105戦隊へ配属される。

それまで飛行学校で、通称「赤とんぼ」と呼ばれた九五式一型練習機や九九式高等練習機、九七式戦闘機など小型機を操縦してきた中村さんの目の前に、これから自分が操縦することになる大型の重爆撃機(重爆)が駐機していた。

赤トンボで操縦を覚えた若き日の中村真さん=昭和16年、仙台で(中村さん提供)赤トンボで操縦を覚えた若き日の中村真さん=昭和16年、仙台で(中村さん提供)

「九七式重爆撃機でした。初めて見たときは、こんな大きな機体が本当に飛ぶのかと不安でした」と中村さんは明かす。

重爆での飛行訓練は連日繰り返された。

「訓練空域は御前崎(静岡)の高度3000メートル。富士山を目標に飛ぶのです。富士山に近づいたら、『はい旋回開始!』の合図。そこでぐるりと回って、『旋回終了!』です」

コックピット左側にある正操縦席に中村さんが座り、右側の副操縦席には教官が座って訓練は行われたという。

富士山への訓練飛行中にエンジンが火を噴く

九七式重爆は双発エンジンを搭載している。ある日、上空で訓練中に右翼側のエンジンが火を噴いて停止した。

「三保の松原上空を飛んでいるときでした。これはえらいことになったぞ…」。中村さんは不安に襲われた。すると、「隣に座る教官の太田少尉が『よしっ、俺に任せろ』と操縦桿(かん)を握ったんです」

太田少尉は片側のエンジン一つだけで巧みに機体を操縦。高度3000メートルから旋回を繰り返しながら降下し、浜松の基地を目指し、見事に重爆を滑走路に着陸させたという。

この話をしながら中村さんが1枚の写真を見せてくれた。中村さんが手に取った写真には、飛行帽を誇らしげにかぶり、機体に手をかけてたたずむ、まだ表情に幼さが残る若き日の中村さんが写っていた。

太田少尉の飛行帽をかぶった中村真さん=昭和17年、浜松で(中村さん提供)太田少尉の飛行帽をかぶった中村真さん=昭和17年、浜松で(中村さん提供)

「この飛行帽は実は太田少尉のものなんです。撮影のときに借りたのです。あの危機的状況を、まさに“天女の舞”と呼べる神業の操縦技術で切り抜けて生還した太田少尉に少しでもあやかりたいという思いからです」

故郷の空を飛ぶ-憧れの映画「進軍」のワンシーン再現

陸軍の屈強な重爆パイロットとしてめきめきと腕をあげていく中村さんの話は誇らしげで勇ましかった。しかし、もともとは旅客機のパイロットに憧れた“飛行機少年”。民間の乗員養成所で初飛行をしたときのこんな秘話を、「誰にも話していないのですが…」と恥ずかしそうに教えてくれた。

それは昭和16年4月。機体は赤とんぼ。「仙台-松戸」を飛ぶ航法訓練の途中だった。

「中村よ、だいぶ流されたね。今どこを飛んでいる。下の街はどこだ?」と教官に言われて地図で確認すると、「そこは私の故郷・郡山の上空だったのです。教官は間違えたふりをして、わざと郡山まで飛んできくれたんです」

すると、「『お前の家はどこだ。俺が操縦するから、お前は手をふれ』と言うんです。訓練飛行中、こんなことは本当は禁止されているのに…。でも私はうれしくて、必死で家を探し、教官、ありました。あそこです! と叫びました」

教官は中村さんの家をめがけて機体を急降下して引き起こす曲技飛行を3、4回繰り返したという。

「そのとき、この音に気づいた私の母が家の中から大きな日の丸の旗を持って飛び出してきたんです」

息子が乗る赤とんぼに向って必死で旗をふる母が見上げる上空で、教官は何度も宙返りを繰り返し見せたという。「本当にうれしかったです。でも、あの優しかった教官はその後、戦死されたと聞きました。無念です」

複葉機のパイロットがヒロインに郵便物を送り届ける…。“飛行機少年”が憧れたあの映画のワンシーンが実現した瞬間でもあった。

それからわずか約3年半後の19年12月。重爆パイロットとして訓練を積んだ中村さんに運命の日が待ち受けていた。陸軍特別攻撃隊の二番機正操縦員に任命された中村さんは、フィリピンのクラークフィールド基地を飛び立とうとしていた。「菊水隊」と命名された特別攻撃部隊。それは重爆だけで編成された特攻隊だった。

(下)に続く


呑龍(どんりゅう)

一〇〇式重爆撃機(ひゃくしきじゅうばくげきき)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の重爆撃機。キ番号(試作名称)はキ49。愛称は呑龍(どんりゅう)。略称・呼称は一〇〇式重爆、百式重爆など。連合軍のコードネームはHelen(ヘレン)。開発・製造は中島飛行機。

1944年4月にはキングレコードから呑龍をテーマにした「鐘馗呑龍新司偵(時雨音羽作詞、細川潤一作曲、鬼俊英歌)」が作られている。ウィキペディア


空華之塔(くげのとう)について

太平洋戦争は沖縄を天王山として終結しました。例え悲しい敗戦に終わったとは申せ、地球の半ばを覆う広大な戦域を舞台として優秀な連合軍の空軍を対手に戦い抜いた我が航空勢の健闘は国民は申すに及ばず世界の人々の・・・>>>つづき空華之塔 Okinawa yoluyukai

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沖縄県平和祈念公園内に空華之塔はあります。那覇から平和記念公園は約22kmあります。沖縄本島の最南部糸満市摩文仁ありバス、タクシーもご利用できます。・・・>>>つづき案内地図 Okinawa yoluyukai

沖縄航空史

琉球王「尚 穆」(しょうぼく)の時代36年の頃、首里士族で花火師の安里周当(あさとしゅうとう)が凧(たこ)用の飛翔体で、南風原村(はえばるそん)字津嘉山(あざつかざん)部落の自宅および付近の山野で飛行したとの逸話伝説あり。・・・>>>つづき飛び安里 Photo:南風原町観光サイト

寄付について

戦後70年が過ぎ会員の高齢化と会員数の減少に伴い、維持管理の費用もそれぞれが持ち出しという状況になっています。先の大戦で勇敢に戦った英霊の功績を後生に残したい思いでなんとか維持しいるのが現状と申せましょう。航空関係者のみならず多くの日本の方々に心よりご支援の程御願い申し上げます。 Okinawa yoluyukai


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