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旧日本軍潜水艦「呂500」を若狭湾で発見 元乗組員が明かした「終戦後の“出撃”」秘話産経新聞2018.7.16

若狭湾で見つかった旧日本軍の潜水艦「呂500」の艦橋前部。遠隔操作の水中ロボットが撮影した(ラ・プロンジェ深海工学会提供)若狭湾で見つかった旧日本軍の潜水艦「呂500」の艦橋前部。遠隔操作の水中ロボットが撮影した(ラ・プロンジェ深海工学会提供)

先の大戦後、京都府舞鶴市沖の若狭湾で米軍に処分され、海底に沈んだ旧日本軍の潜水艦を調査していた浦環(うら・たまき)九州工業大特別教授らの調査チームが、対象だった3隻全ての位置と名前を特定したと7月3日、発表した。ドイツから譲渡されたUボートと呼ばれる潜水艦「呂500」も含まれ、当時高水準だったUボートの技術を、この呂500から日本軍が学んだ歴史も思い合わされる。元乗組員の男性は「当時のことを思い出す」と、終戦後に“出撃”した驚きの秘話を明かす。(社会部 福田涼太郎)

日本に譲り渡された唯一のUボート

「私たちは非常にこれに注目している」。3隻を特定したことが発表された7月3日の記者会見。浦氏は3隻の中でも、呂500のたどった歴史が興味深いものであることを熱っぽく説明した。

柳田さんは同日午後、零戦の操縦ライセンスを取得するための訓練として、チノ空港から約1時間のフライトを行った。

調査対象となった3隻の潜水艦は「呂500」に加え、大正13年建造で敵襲の見張りなどをした「呂58」、昭和2年建造で機雷の敷設を担った「伊121」。いずれも舞鶴市・冠島付近の深さ90メートル前後の海底で見つかった。

調査期間は6月18~21日。旧防衛庁の資料やサルベージ会社の情報などに基づき、小型漁船から音波探知機を使って海底の様子を調べたところ発見した。遠隔操作の水中ロボットによる撮影にも成功。船舵の位置、へさきの形や船体の長さなどから、それぞれの艦を特定した。

3隻は昭和21年4月30日に連合国軍総司令部(GHQ)により海没処分とされたが、爆破などはされなかったとみられ、「呂500は非常に(船体が)細くて全体がきれいに残っている」(浦氏)など、沈めたときの形をほぼ保っているという。

中でも浦氏が呂500に注目する理由は、同艦が同盟国だったドイツで建造され、日本に唯一、譲り渡された歴史にある。就役したのは奇しくも真珠湾攻撃が行われた昭和16年12月8日。基準排水量1120トン、全長約76メートル、最大速力7・7ノット。ドイツでは艦名が「U511」だったが、日本海軍の所属となって呂500になった。

同艦は当時、ドイツの占領地だったフランスのロリアン港を1943(昭和18)年5月に出港。ドイツ人艦長のもと、アフリカ大陸南端の喜望峰を回り、90日かかって日本海軍の軍港がある呉(広島)に入った。実はドイツが日本に引き渡そうとした潜水艦は2艦だったが、もう1艦は日本軍によって回航されていた途中、大西洋で撃沈されてしまったという。

浦氏によると、Uボートは防振技術や防音技術など当時の日本にはない技術が詰まっていた。特に日本の潜水艦は騒音が大きかったといい、Uボートを参考に「(ドイツが防音を)どう実現したのかは、(日本が)勉強して取り入れているはず」という。

あまりにも静かだったため、日本海軍は呂500を標的艦とし、これを海の中で探査する技術の開発に努めたほか、実際に探し出す訓練も行っていたという。

溶接技術も日本より優れていたといい、研究の対象になっていたとみられる。浦氏は「戦後、日本の造船技術を支えたのは溶接技術。その技術の高さは、こういうことからも波及しているんじゃないかと考えられる」と指摘した。

また、沈んだ潜水艦を探す意義を「海の中に沈んだものは忘れ去られる。それをできるだけ掘り起こして歴史の事実として提示することが重要だ。歴史を学ぶことは、歴史を考えることの基礎になる」と浦氏は語った。

「死を覚悟した」どくろマーク

「戦争に負けたがために沈められたのは悲しく、残念だった。見つかったことはうれしい」

呂500の発見をとりわけ喜ぶ男性がいる。終戦の年の昭和20年、2等下士官として10代で同艦の砲撃手になった小坂茂さん(92)=福井県越前市=だ。乗組員として過ごしたのは短い期間だったが、同艦をめぐる記憶は色濃く残っている。

終戦間際の20年8月12日ごろ、訓練中だった呂500に旧ソ連・ウラジオストクへの出撃命令が下り、準備のため舞鶴港に戻った。狭い艦内の通路は食料品や装備であふれ、ベッドの下には魚雷が収納された。

潜水艦はひとたび攻撃を受ければ、ほぼ脱出する方法はない。この準備期間に小坂さんは舞鶴で故郷の方向に帰るであろう北陸出身者を見つけ、両親宛の遺書代わりの手紙と前払いされた3カ月分の給料、そして「息子は元気で出ていった(出撃していった)」との言づてを託した。

しかし、8月15日、玉音放送を聞いた他の潜水艦の乗組員から敗戦の一報がもたらされた。呂500はラジオの調子が悪く、直接聞くことができなかった。

「一矢報いてやる」。それでも乗組員たちは出撃の決意を固めていた。誰の仕業か、船体の日の丸の横には、どくろのマークが描かれた。「死を覚悟してのことだと思う」(小坂さん)。8月18日、乗組員たちは真っ白な作業服に着替えて甲板に整列し、岸壁を埋め尽くした見送りの人々に向かって敬礼した。命令に背いての出撃だった。

だが、出港して一晩たったころのこと。「(ウラジオストクに)行ってはだめだ!」。本国から繰り返し下されていた帰港命令に応じることになった。乗組員たちは泣きながら帰って来たという。

後年になり、元乗組員が集まる戦友会の会合で、呂500が若狭湾で海没処分になったことを知ったといい、「悲しかった」と当時を振り返る小坂さん。今回、インターネットで生中継された海底調査の様子を見守ったが、長い年月がたっていることもあり、映し出される船体を見ても分かりづらかった。

「船体のどくろマークは残っているのだろうか。残っていれば見てみたい」

今はほとんど亡くなったという当時の乗組員約60人のためにも、残った自分の目で確かめたいと願う。

産経新聞2018.7.16

若狭湾で見つかった旧日本軍の潜水艦「呂500」の艦橋前部。遠隔操作の水中ロボットが撮影した(ラ・プロンジェ深海工学会提供)

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