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ノンフィクション戦後民間航空史大空の証言第1部・空自のつばさ

1987年発行 日刊航空 第6089号
ノンフィクション戦後民間航空史大空の証言第1部・空自のつばさ
駿河 昭
第3章・不沈空母「沖縄」炎上(1)

筆者が摩文仁ケ丘の「空華之塔」を訪ねたのは、昭和61年7月1日のことである。 摩文仁には、本土復帰前に1回、復帰後も1回来ているが、「空華之塔」の存在を知ったのはずっとあとになってからである。

その日、灼けるような炎天は雲一つ置かず、南海の波涛は穏やかに摩文仁の巌を洗っていた。 案内役は那覇市の個人タクシー赤嶺盛次さんで、「私はもう65才になります。普段は余り南に来ません」 という。南部に来ると、否応なしに戦争を思い出すからであろう。 塔のある聖跡公園は、戦没者奉賛会が管理していて、タクシーは所定のところまでしか行けず、あとは 乗車賃100円の園内ミニバスを利用する。

バスの終点に休憩所があって、ハイビスカス・夾竹桃(キョウチクトウ)・菊などを揃えた花束を二つ買う。 だらだら坂を登り、メイン道路から逸れて断崖までの細径を辿ると、「ダバオの塔」のわきの突端に「空華之塔」は立っていた。 石塔のてっぺんに据えられたプロペラがユニークだった。「空華之塔」と並んで、「第六十七代内閣総理大臣福田赳夫」 と揮毫のある「飛行第十九戦隊特攻之碑」が立ち、燈籠の下に折り紙の千羽鶴が風化していた。

塔の周辺には蜂が唸りをあげ、足許からバッタが翔び立つなど平和は有難い。此処からの眺望は良く。 満歳岩、黎明之塔、そして遠く喜屋武岬が延び、汚物処理場の煙突からけむりが立ち上っていた。

同行の赤嶺さんは、「黎明の塔と満歳岩の中間あたりに井戸があったんですが、米軍の砲撃で飛ばされました。 船から双眼鏡で見つけ、撃ったんです」と教えてくれた。

「空華之塔」について語るには、その前身にも触れなければならない。在沖縄旧航空関係者20名により、 沖縄飛行クラブが結成されたのは昭和29年10月24日である。 まず、木村滑空機研究所からKK101B型中級複座滑空機1機を購入、昭和30年1月30日、那覇市内上の山中学校前広場において、 戦後初の滑空訓練に漕ぎつけたが、同4月17日、琉球列島米国民政府より、“航空法規布令告示まで飛行中止せよ”の命令があり、 活動は一時休止を余儀なくされた。しかし、「太平洋戦争中特に沖縄戦における航空関係戦没者の慰霊塔を建立しようではないか」 との計画がやがて持上り、昭和36年3月、この問題に関心のあった日本航空の小原中道さんがたまたま来沖、協議の結果、 沖縄側が沖縄飛行クラブ(上原真有会長)、本土側は小原さんらが主体となり、推進することで合意したのがその嚆矢である。

塔は最初米軍上陸地点の読谷飛行場付近が有力候補地となったが、このあたりは米軍に収容されていたため、 代りに沖縄戦終焉の地である摩文仁が選ばれた。さっそく上原真有会長・玉那覇徹次副会長の二人が奔走、 昭和36年3月7日に至って地主の内諾が得られ、同月9日からクラブ会員全員による建立地の伐採仮整地が始まった。

本塔のデザインは、当初等身大のパイロット・ブロンズ像を計画したが、玉那覇正吉琉球大学美工学部助教授に一任することに落着いた。 昭和36年8月2日、「沖縄戦戦没航空人慰霊塔建立期成会」の発会式が挙行され、席上、上原真有会長の提案により、塔名は「空華之塔」と正式に命名された。 河辺正三元航空総軍司令官(陸軍大将)書になる「空華之塔」假碑(高さ3.7メートル、径20センチメートルの桧柱で木製) が、日本航空の無償空輸により、那覇空港に到着したには同9月1日、渡名喜守定琉球漁業(株)社長(終戦時海軍大佐)、 野村豊吉日本航空沖縄支店長らが出迎え、同12月30日、假塔建立招魂式が建立地で挙行された。

さらに昭和38年1月31日、建立地854坪の買収にともなう土地登記完了、 同5月30日から、沖縄側目標額1,000ドル・本土側目標額5,500ドル(200万円)の募金活動が開始され、 建設期成会々長は、本土側河辺正三氏・沖縄側渡名喜守定氏がそれぞれ新任された。なお、 同時に本土側理事長に永石正孝元海軍大将(戦後・防衛省/全日本航空事業連合会)が就任した。

募金最終額は沖縄側1,339ドル・本土側204万9,000円計240万円となり、本塔は昭和39年8月着工、同10月31日完成、 その除幕式及び慰霊祭は同11月1日盛大に挙行された。当日のもようについては、空華之塔建設期成会世話人が昭和40年7月1日に まとめた寄付金収支報告書で、<十一月一日除幕式は朝来の雨も式典の始まる直前には晴れ、まことに上乗の天気に恵まれ、 式典には現地をはじめ石垣島、本土からも遺族の参列あり、多数の島民、沖縄の政、財界者、並に米空軍司令官代理ヘス大佐の参列をも得て 荘厳裡に行われました。

本土側世話人代表として、河辺正三氏(元陸軍航空総軍司令官)、寺岡謹平氏(元海軍第三航空艦隊司令長官)、 および神直道氏(元牛島軍航空参謀)が参列し、式辞および献詩を呈しました。また日本航空株式会社は社長代理として伊藤次郎氏(当会世話人) を参列せしめられました。今後の塔の維持管理は、沖縄戦没者慰霊奉賛会(沖縄護国神社内)が当り、 現地側空華之塔建設期成会を発展的に解消して、「翼友会」に改組し、理事一名を奉賛会に送り、奉賛会の支援団体として、 補備整地、植樹等を行ない、今後一層霊域としての体裁を整える所存であります。

とくわしく記述されている。実際の除幕は、陸軍特別特攻隊“誠”隊々長伊舎堂用久少佐の母堂伊舎堂ミツさん(八重山石垣市出身)の手に よって行なわれた。

また、この日慰霊祭は毎年航空日の9月20日に行うことも決めている。塔上のプロペラは、 航空自衛隊百里基地から贈られたT-34メンター練習機のもので、日本航空・南西航空の協力により、昭和45年9月19日に取り付けられている。 また、「特攻之碑」は昭和55年8月10日の建立である。

なお、昭和62年1月現在の翼友会々長は渡名喜氏、副会長は我喜屋維昌沖縄エアーポート・サービス会長である。 我喜屋さんは「塔祭祀の対象は、太平洋全戦域の軍・民間航空関係戦没者および飛行機材に拡大されました」と 語っている。

下記の画像は当時の原本のコピーです。

第3章・不沈空母「沖縄」炎上(1)

空華之塔(くげのとう)について

太平洋戦争は沖縄を天王山として終結しました。例え悲しい敗戦に終わったとは申せ、地球の半ばを覆う広大な戦域を舞台として優秀な連合軍の空軍を対手に戦い抜いた我が航空勢の健闘は国民は申すに及ばず世界の人々の・・・>>>つづき空華之塔 Okinawa yoluyukai

アクセス

沖縄県平和祈念公園内に空華之塔はあります。那覇から平和記念公園は約22kmあります。沖縄本島の最南部糸満市摩文仁ありバス、タクシーもご利用できます。・・・>>>つづき案内地図 Okinawa yoluyukai

沖縄航空史

琉球王「尚 穆」(しょうぼく)の時代36年の頃、首里士族で花火師の安里周当(あさとしゅうとう)が凧(たこ)用の飛翔体で、南風原村(はえばるそん)字津嘉山(あざつかざん)部落の自宅および付近の山野で飛行したとの逸話伝説あり。・・・>>>つづき飛び安里Photo:南風原町観光サイト
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