沖縄航空史(1787~1940)中国年号乾隆52年(1787) 琉球王「尚 穆」(しょうぼく)の時代36年の頃、首里士族で花火師の安里周当(あさとしゅうとう)が凧(たこ)用の飛翔体で、南風原村(はえばるそん)字津嘉山(あざつかざん)部落の自宅および付近の山野で飛行したとの逸話伝説あり。その設計図および飛翔体の一部は近世に至り白蟻の被害で焼却、子孫は現在ハワイ・オアフ島に移住。ちなみに本邦飛行の祖と言われる岡山の「浮田幸吉」の飛行は天明5年(1785)頃とされている。 ※画像は南風原町観光サイトより 大正4年6月5日(1915):琉球新報社主催で、東京市出身の飛行家・高左右隆之(たかそうたかゆき)(29歳)が高左右式4号機を駆って沖縄那覇市の潟原(かたばる)塩田で初の動力飛行ショー行ったが離陸に失敗、6月8日再度飛行を試みたが電線に接触後墜落、見物人の児童にゲガをさせ初飛行は失敗に終わる。 大正10年5月1日(1921):佐世保海軍航空隊の佐世保・台湾間飛行が行われる。上野敬三(うわのけいぞう)大尉を長とする第2号機、上田中尉の第5号機、杉本中尉の第7号機の横廠(よこしょう)式12号甲型水上偵察機三機で、佐世保、奄美大島、沖縄本島中城湾、宮古、八重山を経て台湾へ。 大正10年9月15日(1921):陸軍大刀洗(たちあらい)航空第四大隊の飛行訓練が豊見城村(とみしろそん)瀬長島(せながじま)与根干潟(よねひがた)で行われる。飛行機種は不明。 昭和6年0月0日(1931):日本海軍省が小禄村大嶺(おろくおおみね)、鏡水(かがんじ)の農地の一部を接収買収して初の飛行場を建設する。(現那覇空港) 昭和6年10月4日(1931):日本航空(株)の内地台湾連絡テスト飛行が行われ、小禄(おろく)飛行場に初の着陸。使用機はフオッカーF・7B/3M型旅客機、福岡大刀洗(たちあらい)-台北間9時間59分。 昭和8年1月15日(1933):琉球新報社の招きで来島した女性パラシューター宮森美代子が豊見城村(とみしろそん)与根(よね)の干潟で落下傘降下を行う。使機は陸軍省払下げの川崎サルムソン2A-2偵察機。 ※写真は「東京朝日新聞」1931.3.7 千葉県習志野に降り立った様子 昭和8年4月29日(1933):沖縄県民の献金による海軍90式1型艦上戦闘機「報国28沖縄号」の献納式が小禄(おろく)飛行場(現那覇飛行場)で行われる。操縦者は小園安名(おぞのあんみょう)海軍中尉。(終戦時の厚木航空隊司令)。 昭和10年10月8日(1935):郵便物だけを積んだフオッカー旅客機着陸。 昭和11年1月1日(1936):内地台湾間連絡航空に初の旅客輸送開始。フオッカーF-7B/3M型8人乗り、「はやぶさ」号着陸。 昭和11年3月21日(1936):小禄(おろく)飛行場が航空法に基いて「那覇飛行場」と呼ばれる。 昭和12年8月14日(1937):太田輝夫(おおたてるお)海軍一等航空兵(那覇市立商業学校昭和8年卒)、第一聯合航空隊鹿屋航空隊の中国の抗州、広徳飛行場第一次渡洋爆撃に参加戦死。本県航空戦死者第一号となる。墓碑は摩文仁(まぶに)祈念公園内の空華之塔(くげのとう)敷地内にあり。 昭和12年12月8日(1937):日本航空輸送(株)内台定期空路のダグラスDC-2型・富士(ふじ)号がエンジン不調のため、沖縄本島西方座間味(ざまみ)村沖に不時着水し、生存者2名、死亡者10人の事故発生。生存者の一人は元海上保安庁長官の島居(しますえ)辰次郎氏。 昭和13年12月0日(1938):沖縄県滑空聯盟が結成され、文部省型プライマリー初級滑空機到着。 昭和14年2月5日(1939):県下各中学校、青年学校生徒による滑空訓練始まる。 昭和15年3月21日(1940):海軍第二航空戦隊(第二艦隊)の空母艦載機96式4号艦上戦闘機2機が那覇市上空で接触事故を起こし2機共墜落、乗員2名殉職。 昭和39年11月1日(1964):空華之塔除幕式及び慰霊祭を陸軍特別攻撃隊第17飛行隊伊舎堂用久少佐の母堂伊舎堂ミツ様の除幕にて行う。空華之塔建設期成会を解散し「沖縄翼友会」に改称、慰霊祭を毎年9月20日(空の日)前後に行うことにする。 沖縄翼友会顧問(濱松 昭・調査)
太平洋戦争は沖縄を天王山として終結しました。例え悲しい敗戦に終わったとは申せ、地球の半ばを覆う広大な戦域を舞台として優秀な連合軍の空軍を対手に戦い抜いた我が航空勢の健闘は国民は申すに及ばず世界の人々の・・・>>>つづき Okinawa yoluyukai
沖縄県平和祈念公園内に空華之塔はあります。那覇から平和記念公園は約22kmあります。沖縄本島の最南部糸満市摩文仁ありバス、タクシーもご利用できます。・・・>>>つづき Okinawa yoluyukai
琉球王「尚 穆」(しょうぼく)の時代36年の頃、首里士族で花火師の安里周当(あさとしゅうとう)が凧(たこ)用の飛翔体で、南風原村(はえばるそん)字津嘉山(あざつかざん)部落の自宅および付近の山野で飛行したとの逸話伝説あり。・・・>>>つづきPhoto:南風原町観光サイト
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