先の大戦で沖縄並びに航空戦に散華された先輩、同僚、また運命を共にした航空機材の冥福を祈ります。 沖縄翼友会
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青い目の艦隊を震撼させた“沖縄特攻”の慟哭を聞け

青い目の艦隊を震撼させた“沖縄特攻”の慟哭を聞け
首里山上に立つ軍司令官と参謀の目の前で散華した日本人たち
「丸」昭和42年1月号(236号より)

■ 故郷の人々の目前で

昭和二十年一月、私は台湾第八飛行団司令部に勤務していた。とうじフィリピンにおける陸海軍航空部隊の、凄惨な作戦行動を見守っていた私は、特攻隊の行動を注視し、そこだえられた戦訓を調査したいた。それは比島についで、やがてわrwに課せられるべきはずの行動が待っていたからである。

そのころであった。飛行師団で或るとき、作戦会議のために部隊長全員があつまったときがあった。やがて会議の終わった後、私はふと、花蓮港基地から出張してきている伊舎堂大尉を呼び止めていた。

塔の周辺には蜂が唸りをあげ、足許からバッタが翔び立つなど平和は有難い。此処からの眺望は良く。 満歳岩、黎明之塔、そして遠く喜屋武岬が延び、汚物処理場の煙突からけむりが立ち上っていた。

同行の赤嶺さんは、「黎明の塔と満歳岩の中間あたりに井戸があったんですが、米軍の砲撃で飛ばされました。 船から双眼鏡で見つけ、撃ったんです」と教えてくれた。

陸軍大尉伊舎堂用久沖縄石垣島の産であった。陸軍士官学校に学び航空兵科に、籍をおくこととなったが、戦局がしだいに危急をつげると、彼はみずからすすんで特攻隊の要員として志願した。そして在台湾第八飛空師団にぞくするや、その隊長を命ぜられ、十機をもって一隊を編成し、花蓮港基地において日夜、飛行訓練に没頭していた。

部下たちは隊長伊舎堂の温厚な人柄、熱心な訓練指導を信頼し、いずれも、一騎当千の猛者ぞろいであった。隊名は、誠兵団と称されていたその頭文字をとって、誠第十七飛行隊と名づけられていた。

私に呼びとめられた伊舎堂大尉は真っ黒な顔をほころばせながら、私にちかよってきた。くすんだ顔貌ではあるけれども、かげりのない、ほがらかなようすであった。

士官学校の講壇の上で、彼のまえにたったことのある私は、もう何もいうべきことはないはずである。いまさら、訓示らしい言葉をかけて見たところで何になるかとさえ思われた。しかしフィリピンのおける特攻を指導主宰した指導者たちや、さらに、その上層で企画立案した人たちも、あだおろそかな気持ちではなかったろうし、血が逆流する思いで当たった救国の悲願行為でもあったろう。だがそれはそれとしてただ問題は、特攻部隊を企画立案する根本に、論議の余地はあるが、いま、ここではそれにはふれない。

そして、特攻隊員の、憂国の至情には、毛一すじの批判もゆるされないものと、断じてはばからない。

■ 息子を偲ぶ一人の老母

莞爾として逝った人、ただ命令をうけてもくもくとそれのしたがった人、救国の責任感に死せる人、そしてたくみに敵艦船をとたえた人もあるし、敵の砲火に火だるまになった人も、なた、むなしく海面に突入した人もある。といって、心境がどうであれ、戦士たちの至情と高邁には一つも変わるあるべきはずがない。

比島で戦死した、ある特攻隊員の日記に、次のような意味のことがしるされている。「怖いこわいと、そして泣きながらでも操縦稈を操作して、自らを敵に体当たりして行く。それでも愛国の至情には一つも変わらないはずである」と。戦士たちの心の底を端的に表現したののと思われる。みずからの身体を、みずからの意思で死の軌道にのせる。それが特攻である。

昭和三十九十一月一日、塔にかけられた白布の一端を、他の人に手伝ってもらいながら、除幕した老母があった。護郷の一念に燃えた慶良間の海に消え去った、故陸軍中佐伊舎堂用久氏の母堂ミツさんである。除幕が終わると御母堂は、しげしげとなつかしそうに塔面をあおぎ見ておらえた。 故陸軍大尉河辺正三氏は次のように五言詩を献じた。

仰ぎ看る空華之塔
鵬翔す殉国の勲
風涛千百戦
霊気目にいんうんたり

碑は、いまも東に面している。いかなる風涛にもたえ、祖国の平和と繁栄をいのるがごとく。

下記の画像は当時の原本のコピーです。

 息子を偲ぶ一人の老母

空華之塔(くげのとう)について

太平洋戦争は沖縄を天王山として終結しました。例え悲しい敗戦に終わったとは申せ、地球の半ばを覆う広大な戦域を舞台として優秀な連合軍の空軍を対手に戦い抜いた我が航空勢の健闘は国民は申すに及ばず世界の人々の・・・>>>つづき空華之塔 Okinawa yoluyukai

アクセス

沖縄県平和祈念公園内に空華之塔はあります。那覇から平和記念公園は約22kmあります。沖縄本島の最南部糸満市摩文仁ありバス、タクシーもご利用できます。・・・>>>つづき案内地図 Okinawa yoluyukai

沖縄航空史

琉球王「尚 穆」(しょうぼく)の時代36年の頃、首里士族で花火師の安里周当(あさとしゅうとう)が凧(たこ)用の飛翔体で、南風原村(はえばるそん)字津嘉山(あざつかざん)部落の自宅および付近の山野で飛行したとの逸話伝説あり。・・・>>>つづき飛び安里Photo:南風原町観光サイト
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