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昭和40年(1965)新聞報道

■ 年内に″空華之塔″へ 荒れ果てた空の英雄の墓

沖縄翼友会(渡名喜守定会長)では、那覇高校裏にある荒れ果てた空の英雄の墓を摩文仁の″空華之塔″内に移すため、 遺族をさがしていたが、このほど鹿児島新報と本社鹿児島支局の協力で遺族がわかったので、最終的な移転日取りを決め、年内には 移すことになった。(一日朝刊既報)

太田輝夫海軍一等航空兵は、昭和十二年八月十四日、第一回渡洋爆撃に参加、指揮小隊三番機に搭乗、杭州飛行場の爆撃を敢行、同日 午後六時十五分愛機とともに壮烈な戦死をとげたもので、沖縄出身飛行兵として日華事変さいしょの戦死者。那覇市では市葬で英霊の 栄誉をたたえた。

太田一等航空兵の墓は那覇高校裏の俗称″大和人墓″にあり、遺族もいないままに荒れ放題。墓の台座はそのままだが、墓碑は倒れ、 かえりみる人もいない。ひるは子どもの遊び場、よるは不良児のたまりばになっている。これをみかねた翼友会では 「このままでは先輩の霊がうかばれない」と空華之塔に移す計画を立て、遺族さがしにのりだした。

父親の太田豊さん(八四)が、鹿児島市易居町九の一四で健在であることがわかり、墓の移転について了解をえたので、翼友会では、 さっそく日取りを打ち合わせ、年内には″空華之塔″に移すことにした。

■ 航空兵士の墓を空華之塔に移す

荒れはてた大和人墓(やまとうんちゅばか)の中に忘れられていた一航空兵士の墓碑が、沖縄翼友会の手で、糸満町摩文仁の旧日本軍民間航空関係者の霊を祭る「空華之塔」の敷き地内に移され、二十六日午後二時から移転供養祭が行われた。

旧海軍一等航空兵・太田輝夫さん(当時二十一歳)の墓碑で、太田さん一家は戦前那覇に住んでいたが、輝夫さんは支那事変で戦死 その後一家は輝夫さんの墓を残したまま郷里の鹿児島に引き揚げた。父親の鹿児島市易居町、太田豊さん(八四)は、もうあとかたもないものとあきらめていたが、それが残っていてこんど空華之塔に合祀され感激している。

下記の画像は当時の原本のコピーです。※クリック拡大

 当時の新聞報道

空華之塔(くげのとう)について

太平洋戦争は沖縄を天王山として終結しました。例え悲しい敗戦に終わったとは申せ、地球の半ばを覆う広大な戦域を舞台として優秀な連合軍の空軍を対手に戦い抜いた我が航空勢の健闘は国民は申すに及ばず世界の人々の・・・>>>つづき空華之塔 Okinawa yoluyukai

アクセス

沖縄県平和祈念公園内に空華之塔はあります。那覇から平和記念公園は約22kmあります。沖縄本島の最南部糸満市摩文仁ありバス、タクシーもご利用できます。・・・>>>つづき案内地図 Okinawa yoluyukai

沖縄航空史

琉球王「尚 穆」(しょうぼく)の時代36年の頃、首里士族で花火師の安里周当(あさとしゅうとう)が凧(たこ)用の飛翔体で、南風原村(はえばるそん)字津嘉山(あざつかざん)部落の自宅および付近の山野で飛行したとの逸話伝説あり。・・・>>>つづき飛び安里Photo:南風原町観光サイト
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