義烈空挺隊と第三独立飛行隊をもって、読谷、嘉手納飛行場に強行着陸、所在する戦闘機群、指揮所、兵站施設等を爆砕すること・・・「義号作戦」
Photo:唐瀬原 ―陸軍落下傘部隊史―「5月24日18:50、諏訪部忠一大尉率いる第三独立飛行隊所属の12機の九七式重爆撃機が陸軍熊本健軍飛行場を出撃した。同日22:11頃、諏訪部機より突入を知らせる最後の無電「オクオクオクツイタツイタツイタ」があり、先導した重爆隊により熊本を発った12機のうち6機が沖縄の北飛行場に強行着陸、さらに2機が中飛行場に着陸したとの報告がなされた。残りの4機は発動機の不調などにより目的地に辿り着けず途中で帰還した。」(wikipedia義烈空挺隊より)
沖縄戦において、米軍上陸以降、制圧された北(読谷)飛行場と中(嘉手納)飛行場から飛び立つ米軍機により、多数の特攻機が撃墜されていきました。第32軍も持久戦により何とか持ちこたえようとしていました。しかし戦況は徐々に劣勢にたたされていきます。そのころ軍上層部から「米軍に制圧された飛行場を奪回してほしい」との要請が始まります。そして、義烈空挺隊が北・中飛行場へ強行着陸、制圧している間に陸海軍の特攻機が沖縄周辺の米艦艇群に突入するという「義号作戦」が立案されたのです。
健軍を訪れた上官に、作戦内容を解説する奥山隊長ら義烈空挺隊幹部。最初にこの作戦の名で行ったのは、フィリピンレイテ島(1944年11月26日にレイテ島の戦い)において米軍占領下の飛行場を破壊するため、高砂族義勇隊を含む(薫空挺隊)を輸送機で強行着陸させ攻撃破壊するためであった。当時レイテ島への味方陣地への補給、増援隊への輸送船が米軍戦闘機によって悉く撃沈させられていた。味方輸送船の航行の安全を図る目的で、レイテ島にあった5つの飛行場のうちブラウエン北、南の2つの基地に対して強行着陸攻撃を行なうこととなり、遊撃第1中隊の投入が決まった。第4航空軍飛行第208戦隊の零式輸送機4機に中重夫中尉以下40数名が搭乗して、1944年11月26日夜間に決行されたている。
「日本側記録では、4機のうち1機は日本軍勢力下のバレンシア飛行場に着陸し、搭乗員は第26師団とともに行動したということのみが確認されている。残りの3機のうち2機については、アメリカ軍戦史によればドラッグ海岸付近に着陸し、乗組員はいずこへともなく消えていったという。残る1機は完全に消息不明である。薫空挺隊の生き残りがいるのかどうかも明らかになっていない。この作戦が成功したのか、失敗したのか、はたまた敢行すら出来なかったのかさえ不明である。アメリカ軍戦史の記述を信用すれば、戦いすら起きなかった可能性が高い。この戦いで戦死したと認定された高砂族の兵士は靖国神社に合祀されている。なお、この作戦に続いて10日後の12月6日には、高千穂空挺部隊(挺進第3・第4連隊)によるレイテ島5基地への一斉強行降下作戦であるテ号作戦が行われている。こちらも、ブラウエン飛行場に降下した100人以上が第16師団に合流したことまでは判明しているが、第16師団も後に壊滅しており、合流者の最後は明らかでない。」
「和合作戦」(戦訓「レイテ戦史」により)
一、決行日次
十二月五日以降、止ムヲ得ザルモ十日以前。
二、空軍ノ攻撃
1、十一月二十三日ー十一月二十七日、航空撃滅戦。
2、十一月二十六日、義号降下斬リ込ミ。
3、十二月一日ー十二月三日、航空撃滅戦。
4、決行前日、空挺降下。
三、海軍
十二月四日ー十二月七日「カリガラ」湾及ビ「オルモック」湾方面地上戦闘ニ協力。
四、地上戦
1、十二月三日、泉(二十六師団)攻撃準備完了。
2、前日、地上戦義号隊、遊撃隊、斬込隊ノ斬込ミ。
3、泉攻撃開始。
泉 南「ブラウエン」「サンパブロ」
垣(十六師団)北「ブラウエン」
相言葉 撃滅。
「空軍ノ攻撃」の2項に「義号降下斬込ミ」とあるのは、台湾の高砂族志願兵から成る薫空挺隊の胴体着陸で作戦は二十六日に実行された。
しかし、「二十六日ブリ(ブラウエン北飛行場)上空で撃墜された薫空挺隊の一機に乗っていた将校の体から、「天号作戦」「和合作戦」の詳細を書いた文書を米軍側が手に入れていた」「これは斬込隊は飛行場を攪乱(かくらん)した後、十六師団と合流するはずだった。「天号作戦」の内容を十六師団長に通達する任務を持たされていたかも知れない。」(レイテ戦記(中)二十一ブラウエンの戦いP296 大岡昌平著より)
軍部は、フィリピンに続いてサイパンへの空挺作戦も実行に移します。薫空挺隊がブラウエンへ突入した翌日、11月27日。教導航空軍司令部から第1挺進集団に対し、「1個中隊をサイパン攻撃部隊として差し出せ」との命令が下されます。第2挺進団がフィリピン出撃中のため、サイパン攻撃隊は第1挺進団から選ばれる事となりました。 作戦命令は第1挺進集団司令部から河島第1挺進団長(※この時点で中村大佐は着任前)へ、そして山田秀雄第1聯隊長へと伝えられます。山田聯隊長から特攻部隊の指揮官に指名されたのが、挺進第1聯隊第4中隊長の奥山道郎(みちお)大尉。各挺進連隊の第4中隊は、破壊工作を目的に工兵出身者を集めていました。B29を爆破する為、サイパン特攻部隊として爆薬の扱いに長けた第1連隊第4中隊が選ばれたのです。
「そこで充当部隊の問題が重要課題として登場した。挺進第一聯隊、第二聯隊共に兄たり難く弟たり難き精鋭である。先にパレンバン出動時、南支那海で明光丸遭難で戦運を逸し、又ラシオ挺進では降下寸前密雲のため長恨を呑み、ニューギニア、スマトラ作戦でも共に戦局の急変にて空しく好機を逸して帰国した挺進部隊の嫡男、第一聯隊に白羽の矢をたてるのは何人と雖も異論のない所である。しかも爆薬でB29を挫する為には当然工兵科たる大尉奥山道郎(陸士五十三期)を中隊長とする作業中隊であるのが至当である」(空挺戦友会資料より)
奥山隊長は、中隊から選抜した126名から成る攻撃隊を編成。人員を補充再編した第4中隊残留組は「作業中隊」へ改称され、指揮は浪花実大尉が引継ぎました。それぞれの運命を辿った陸軍空挺部隊群の中でも、「二転三転する命令に翻弄され続けた悲劇の中隊」として知られる義号部隊。パレンバンの栄光は輸送船沈没事故の為に挺進第2聯隊へ譲り、挺進第3、第4聯隊はレイテ降下作戦へと赴く中、最古参の挺進第1聯隊だけはラシオ、ベナベナと戦機を逸し続けていました。義烈空挺隊は、その第1聯隊から選ばれたコマンド部隊でした。その間、凄まじい訓練を日々繰り返します。サイパン特攻を命じられた筈の168名は、一体どのような経緯で沖縄への突入に至ったのか。
5月17日、沖縄特攻「義号作戦」が正式発令されます。 同月19日、菅原中将は奥山・諏訪部両隊長と直協部隊の渥美飛行第60戦隊長(誘導)、草刈飛行第110戦隊長(戦果確認)を軍司令部に招いて作戦の詳細な打ち合わせをおこないます。20日には義号作戦の全貌を全幕僚に伝達し、義烈空挺隊の出撃は決定されました。あの薫空挺隊によるブラウエン奇襲攻撃と同じ作戦名ですが、2つの「義号作戦」に関連はありません。
「1.義号部隊を以て沖縄(北)(中)両飛行場に挺進し 敵航空基地を制圧し、其の機に乗じ陸海航空兵力を以て沖縄附近敵艦船に対し総攻撃を実施す。
2.北飛行場攻撃部隊は強行着陸に膚接し、重点を在地飛行機の破壊に置き、併せて敵司令部及同地周辺地区の軍需品集積所を攻撃す。
3.着陸後有力なる一部を以って敵司令部及通信所を急襲し、高級将校指揮中枢を崩壊せしむ。
4.爾後海岸方向に戦果を拡張し、揚陸地点附近の物資集積所を攻撃す。
5.中飛行場攻撃部隊は強行着陸に膚接し、重点を在地飛行機の破壊に置き、併せて同地周辺地区・物資集積所を攻撃し、爾後海岸方向に戦果を拡張せしむ。
6.予定滑走路以外に着陸せる場合に於いても、速に担任地域に至り任務完遂に努むべし。
7.目的達成せば我が爆撃隊の制圧爆撃下一斉に戦場を離脱し、北飛行場東北方220.3高地東側谷地に集結し、第二期攻撃(遊撃戦闘)を準備す。離脱時期はX日Y時と予定し青吊星を併用す。
8.3Fsは搭乗機毎に一組となり、各部隊と共に戦闘せしむ。」
陸軍中野学校出身者10名を含む168名の奥山隊は離脱潜伏後、力の続く限り北飛行場への斬り込みを繰り返す計画となっていました。第1小隊関軍曹が遺した作戦計画書には、攻撃目標の地図に「我が墓場予定地ナリ」と書き込まれています。つまり、飛行場の機能を一日でも長く妨害することに専念し、現地第32軍との連携や合流は一切考慮されていません。奥山隊長は飛行隊に対して友軍の占領地まで脱出してみるようにと勧めてみましたが、諏訪部飛行隊長はそれを断ったと伝えられているそうです。
「沖縄の敵飛行場に強行着陸に成功すれば、その晩のうちに敵飛行場爆砕の仕事を片づけてしまひます。隊員全部敵飛行場を自分の墓場と心得て手當り次第敵機をやつつけるつもりだから、自分は必ず成功する自信があります。 空挺部隊の目的を遂げたその後もなほ、もし万一生残ることが出来れば山中にもぐりて敵飛行場の周囲や戦果の報告など、最後の一兵となるまでゲリラ戦を續けて敵を殲滅する覚悟です」(「最後の一兵迄 奥山隊長の決意」より 昭和20年)
いっぽうの中野学校の10名はどのような作戦を立てていたのか。 中飛行場突入を予定していた熊倉順策少尉は、下記の様な証言を残されています。
「一つは、無線班があります。無線機一台に二人がついて、これが二組あった(1.辻岡創少尉・酒井武行軍曹、2.阿部忠秋少尉・菅野敏蔵軍曹)。着陸後は地上戦に参加しないで、すぐジャングルに駆けこみ、通信を確保する。 とくかく彼らは生かさねばならない。それで、技倆の一番確かな一番機に四人とも乗せているんです。攻撃のあと、支援班が彼らに協力する。英語に堪能な者(石山俊雄少尉)が、敵の兵舎などに潜入して、情報を得る。もう一人は医大を卒業した者(原田宣章少尉)で、負傷者らの治療にあたることになっていた」(熊倉氏)熊倉少尉らを含む四人は、遊撃班である(梶原哲巳、棟方哲三、渡辺裕輔少尉)。地上機や兵舎、物資集積所を攻撃した後は、ゲリラ戦・謀略戦を縦横に行う手筈であった」(嘉瀬秀彦「義烈空挺隊・読谷飛行場を急襲」より)
義烈空挺隊が健軍へ移動して2週間後。出撃予定日の5月23日がやって来ますが、天候不良のため、24日に延期します。そして翌5月24日。
<**:
隊は爆撃隊主力の制圧爆撃に接合して、22時を期して強行着陸後、一途該地敵地を爆砕。以後、海岸方向に戦闘縮小。その地区の軍事(聞き取り困難)本部長。>
<**:
まず飛行機はこの滑走路の南端に着く。そうしたらば、敵はこの辺にうようよしている。これをただちに突っ殺して、この北、この滑走路の森林内について自分の行動に移る。>
沖縄本島の北及び中両飛行場に強行着陸。敵陣並びに敵飛行機を爆砕せんとする、義烈空挺(くうてい)部隊員は、出発に先立って衣服に色を付けて迷彩を施した。この日、昭和20年5月24日のことである。奥山道郎大尉の統率の下に、壮烈なる作戦の開始を待つ義烈空挺部隊員は、部隊長の綿密なる軍装検査を受けるのであった。破甲(はこう)爆雷をはじめ、新兵器を全身に取り付けた隊員に、部隊長は訓示した。今や沖縄の死闘、まさにたけなわにして、諸氏のこの一挙は、全軍の刮目(かつもく)して期待するところである。これに対し、奥山隊長は答えた。
<奥山隊長: ……変わりません。我々一同、最後の一兵となるも、任務に向かって邁進(まいしん)、もって重大責務をはたす覚悟であります。全員、喜び勇んで行きます。>
(万歳三唱)
杯を上げて必成を誓う奥山隊長。諏訪部編隊長。
<奥山隊長: 出撃に当たり、隊長として最後の訓辞を与える。待望の出撃の日は、ついに到来をした。平生、訓練の成果を発揮をして、敵アメリカの心胆を震駭(しんがい)し、全軍決勝の先駆けとなるはまさに今日である。>
目的地を中飛行場に持つワタナベ大尉は、演習と同じ気持ちで放胆なれと諭したが、まさに子供のような朗らかさで、全隊員が搭乗機へ向かった。奥山隊長と諏訪部編隊長とはしっかりと手を握り合った。気合いはぴったりと合った。 奥山、諏訪部両大尉の隊長機を先頭に、重ね来たった猛訓練を生かすはこの日。しかも敵陣のまっただ中。全機、進発の令下る。打ち振る日章旗の波に送られて、義烈空挺部隊は沖縄めがけて離陸を開始した。1機、2機、3機。沖縄に戦う(飛行爆音・音声遮断)はもとより、全軍の神かけて祈るは大業成就である。勇士たちは満々たる自信に満ちて進発した。月光、煌々(こうこう)として海面を照らす5月24日の夜、義烈隊の編隊は堂々と、しかも隠密に超低空で敵飛行場に迫っていった。
熊本~沖縄までの誘導機
飛行第60戦隊 杉森大尉以下乗員7名(四式重爆)
北飛行場攻撃部隊(奥山道郎大尉指揮)
編成:指揮班、第1、第2及び第5小隊
全12機中の8機で突入予定
隊長機
隊長・奥山大尉指揮
操縦担当:諏訪部忠一編隊長、川守田少尉
航法及び通信担当:小林少尉、長瀬軍曹
無線班:辻岡創少尉(中野学校)、阿部忠秋少尉(中野学校)、酒井軍曹、菅野軍曹
第1小隊第2分隊長・尾身曹長、北島曹長、金山軍曹、大月伍長、高橋伍長
2番機
第1小隊長・宇津木五郎中尉指揮
操縦担当:酒井少尉、長谷川曹長
航法及び通信担当:なし
第1小隊第1分隊長・宮越准尉、谷川曹長、飯田軍曹、関軍曹、新井伍長、荒間伍長、木内伍長、菊田伍長、木谷伍長
3番機
中野学校・石山俊雄少尉指揮
操縦担当:新妻少尉、藤田曹長
航法及び通信担当:なし
第5小隊第2分隊・三浦曹長、蟹田曹長、諸井曹長、角田軍曹、川崎伍長、河野伍長、齋藤伍長、田村伍長、廣津伍長、中本伍長、宮本伍長
4番機
中野学校・原田宣章少尉指揮
操縦担当:町田中尉、岡本曹長
航法及び通信担当:瀬立少尉、石川伍長
指揮班長・石丸曹長、松實曹長、森井曹長、相田伍長、齋藤伍長、諏訪伍長、田村伍長、堀添伍長、松永伍長
5番機
第2小隊長・菅田寿美中尉指揮
操縦担当:菊谷軍曹、茂木軍曹
航法及び通信担当:なし
第2小隊第1分隊長・藤村曹長、大浦曹長、佐藤曹長、吉川曹長、石田伍長、大塚伍長、川崎伍長、郷田伍長、西潟伍長、宮本伍長、守木伍長
6番機
中野学校・梶原哲巳少尉指揮
操縦担当:松尾曹長、岡本軍曹
航法及び通信担当:なし
第2小隊第2分隊長・今村曹長、大山曹長、前原曹長、門山軍曹、岩瀬伍長、遠藤伍長、大島伍長、三浦伍長、津隈伍長、馬場本伍長、長谷川伍長
7番機
中野学校・棟方哲三少尉指揮
操縦担当:中原准尉、宮岡曹長
航法及び通信担当:青井少尉、今田兵長
空挺隊員:西島曹長、山下曹長、横田曹長、石割伍長、岩村伍長、上村伍長、坂下伍長、田村伍長、室井伍長
8番機
第5小隊長・山田満寿雄中尉指揮
操縦担当:山本曹長、小川軍曹
航法及び通信担当:なし
第5小隊第1分隊長・伊藤准尉、高村曹長、中里曹長、松井曹長、姉川伍長、大釜伍長、神伍長、斎藤伍長、進藤伍長、千代谷伍長、畑伍長
中飛行場攻撃部隊(渡部利夫大尉指揮)
編成:第3及び第4小隊
全12機中の4機で突入予定
9番機
第3小隊長・渡部大尉指揮
操縦担当:久野中尉、荒谷少尉
航法及び通信担当:酒井少尉、簑島曹長
第3小隊第1分隊長・山城准尉、池島曹長、井上曹長、山本曹長、佐藤軍曹、岡本伍長、加藤伍長、田中伍長、村瀬伍長
10番機
中野学校・熊倉順策少尉指揮
操縦担当:高橋少尉、小野曹長
航法及び通信担当:なし
第3小隊第2分隊長・和田曹長、南曹長、森山曹長、毛糠伍長、佐野伍長、杉本伍長、鈴木伍長、種田伍長、平石伍長、福井伍長、細田伍長
11番機
第4小隊長・村上信行中尉指揮
操縦担当:吉沢曹長、水上曹長
航法及び通信担当:なし
第4小隊第1分隊長・道上曹長、酒井曹長、佐藤曹長、仁木曹長、阿加井伍長、安達伍長、齋藤伍長、徳永伍長、比嘉伍長、福島伍長、向笠伍長
12番機
中野学校・渡辺祐輔少尉指揮
操縦担当:木村曹長、小林軍曹
航法及び通信担当:なし
第4小隊第2分隊長・新藤曹長(旧姓東郷)、稲津曹長、伊藤軍曹、小寺軍曹、赤羽伍長、宍戸伍長、東海林伍長、辻岡伍長、豊田伍長、村木伍長
※11番機が渡辺少尉指揮、12番機が村上中尉指揮と記載されている資料もあります。
沖縄戦の後半、敵の手に落ちた二つの飛行場を制圧するという陸軍の作戦史上、類を見ない過酷な任務を背負った精鋭部隊が沖縄に飛来しました。「義烈空挺隊」その壮絶な戦闘は神話化されていますが、沖縄出身の隊員がいたことや、第二期計画があったことはあまり知られていません。知られざる集団特攻の実態に迫ります。1945年5月24日。熊本の健軍飛行場では奥山大尉以下、150人の隊員が最後の別れを惜しんでいました。彼らの任務は、アメリカ軍に占領された読谷と嘉手納、二つの飛行場に爆撃機ごと胴体着陸し、使用不能にする作戦です。
さらに義烈空挺隊は、米軍の主力爆撃機、B29を一発で破壊するための訓練として、模型の背中に帯状の爆雷を乗せたり、爆弾を仕込んだ棒を吸盤で吸着させる技も習得していました。そんな武器を体中に巻き付け、4人乗りの爆撃機に14人ずつ乗りこみ、夕方6時、沖縄の空に向かいます。人生最後の時間となる、沖縄までの4時間の飛行。そして夜10時11分、「只今突入」の無線が入ります。しかしほとんどが打ち落とされ、実際に滑走路に胴体着陸したのはたったの1機でした。走り出た11人の隊員は次々に米軍機を襲い、7機が爆発。7万ガロンのガソリンを炎上させました。
これはアメリカ軍が撮影した、翌朝の北飛行場の様子です。およそ30機の飛行機が破壊され、20人のアメリカ兵が死傷。一方、義烈空挺隊員の遺体の数は69体でした。首里の司令部にいた八原高級参謀は後日こう述べています。「我が空挺隊が敵飛行場に降下し、獅子奮迅の働きをしている様を想像して感動を久しくした。しかし義烈空挺隊は、むしろ小禄飛行場に降下して軍の戦闘に参加してもらったほうが数倍うれしかった」実は翌日の昼、最後の空挺隊員が残波岬で米軍に射殺されています。あの修羅場を抜け、彼はなぜ、海に向かっていたのか。
その答えは、極秘だった「義烈空挺隊攻撃計画」に書かれています。
「X日Y時を期し主力8機をもって中飛行場に強行着陸し」「爾後、海岸方向に戦果を拡張し揚陸地点付近の物資集積所を攻撃」飛行場を破壊したあと、海岸の物資を攻撃するまでが「第一期攻撃計画」でした。計画はそれだけではありません。「目的達成せば、一斉に戦場を離脱し北飛行場東方220.3地点に集結第二期攻撃・遊撃戦等を準ビス」つまり、読谷山岳(ゆんたんざだけ)に再度集結して、ゲリラ戦に移行するのが第二期攻撃だったのです。
隣の山には、すでにゲリラ戦を展開中の第二護郷隊がいました。護郷隊を率いるのは特殊なスパイ教育を受けた陸軍中野学校の人たちそして義烈空挺隊員のうち10人が中野学校の諜報員でした。名護市史編さん係・川満彰さん「義烈空挺隊の中に陸軍中野学校のひとたちが10人も入っていた理由って言うのは」「第32軍が壊滅したあとも彼らがそこで遊撃隊となって第3遊撃隊第4遊撃隊。その人たちと一緒になって、また32軍が壊滅したあとも遊撃隊となって後方かく乱をしていこうと」
陸軍中野学校と沖縄戦の関連を研究している川満さんは、32軍玉砕のあとこそ、彼らの出番だったと指摘します。
川満さん「彼らは生き残る計画だったと思うんですよ。一般の僕たちから見ていたら無謀な計画ではあるんだけれど、とてもじゃないけどそんなことできるんかって言うのがあるんですけれど、彼らは生き残るつもりだった。遊撃戦を展開して、大本営、関東地区の爆撃をどうにかここで少しずつでもいいから食い止めるというそういったことが計画されていたんでしょうね」
隊員の遺体から回収した地図には、アメリカ軍機の配置やどのテントにパイロットが寝ているかまで書かれていて、驚いたアメリカ軍は翌朝、スパイ対策を命じています。住民のふりをした少年兵に諜報活動をさせるのは、護郷隊の得意技。中野学校の仲間によって知り尽くした場所で、義烈は第二期攻撃に入る計画だったのです。小野田少尉のように、たとえ占領されても国を奪還するまで潜伏して活動を続けるのが中野学校の基本でした。重すぎる任務を背負った精鋭部隊。この中に、沖縄出身兵士が二人含まれていました。
義烈空挺隊最年長の山城准尉は、享年31歳。突撃の日、新聞記者にこう語っています。
「私は沖縄生まれというので特別に関心を持たれているようですが別に悲壮な気持ちはありません。かえって自分の生まれ故郷で戦えるので気易い思いでいます。沖縄県民を救うことができれば本望です」数年前、山城准尉の遺族の所在が判明しました。大宜味村喜如嘉。山城准尉はここで生まれ育ち、妹に当たる前田美恵子さんは、今も兄の写真を大事にしています。美恵子さん「申し分ない兄でした。何かにつけてね。うん。(Q.優しかったですか?)優しかったです。力はあるし。三味線は弾くし、いろんな事しました。万能。(Q.特攻隊のような仕事だったというのは知ってましたか?)そういうことはきいてないです」
山城さんの甥・前田貞夫さん「兵隊に行って落下傘部隊に所属してなくなったという、それ以上のことは全然わからないです」特攻の任務も、ゲリラ戦計画も、日本軍の最高機密。家族に告げることはかなわなかった山城金栄さんはこんな言葉を遺しています。「殉国、忠誠の真心、闘魂は火の玉となって敵を焼く」勇ましい言葉を胸に窮地にある沖縄の空を目指した山城さんは今何を思うのか。義烈空挺隊は、その秘匿性から県民にはあまり知られることのないまま、人々の記憶から消えようとしています。
世界各地でテロや紛争が続くなか、「日本は平和だ」と感じる人も多いだろう。実は、毎日のように他国に領海や領空を侵犯されているのだが、一般の人々の耳目にはあまり入らない。先の大戦では、沖縄を守るため、日本を守るために、多くの先人が命をささげた。
沖縄戦の最中、熊本市の健軍飛行場を飛び立った12機168人の「義烈空挺隊」も、その1つだ。
1945年3月26日に始まった米軍の沖縄上陸後、4月7日には支援物資を満載した「戦艦大和」が撃沈された。大和が沖縄にたどり着けなかったため、「沖縄は本土に見捨てられた、捨て石になった」と嘆く県民もいるが、事実は違う。沖縄を救援するため、米軍制圧下の読谷(よみたん)飛行場に強行着陸し、米軍に大きなダメージを与えて玉砕したのが、義烈空挺隊だ。
毎年、同隊の慰霊祭を行っている全日本空挺同志会沖縄支部の濱田種夫氏は次のように語った。
「当時、米軍に制空権・制海権を握られ、本土からは手も足も出ない状況だった。だが、義烈空挺隊の一部は沖縄にたどり着き、本土からの増援部隊として戦って亡くなった。それだけは知っていてほしい」熊本を飛び立った12機のうち、米軍の激しい対空砲火などで多くが撃墜された。読谷飛行場に降り立った隊員11人は敵機を次々と破壊し、大量の航空燃料を焼失させて散華した。そこに、本土と沖縄の隔てはなかった。濱田氏は続けた。
義烈空挺隊に、山城金榮准尉という沖縄出身の隊員がいる。写真では屈強で不敵な笑みを浮かべ、不気味なほどに潔く、悲壮感は欠片もない。隊員らを犠牲者とみる人もいるが、愛する祖国と家族を守るために戦った方々を、『かわいそうな犠牲者』と表現するのはどうかと思う」 資料によると、山城准尉は結婚していて、2歳のまな娘がいたという。戦ったすべての人に、失いたくないものがあり、輝ける人生があった。
濱田氏は「慰霊はあくまで御霊安かれと祈り、慰めることです。私は彼らを心から尊敬していますし、意思を受け継いでいきたい。同時に、後世にも語り継いでいきたい」と語った。
沖縄戦では、軍民合わせて20万人もの戦没者を出した。こうした悲劇を二度と繰り返してはならない。義烈空挺隊や特攻隊、鉄血勤皇隊、ひめゆり学徒隊、白梅学徒隊などの歴史を振り返りながら、彼らの魂は「国防の危機」から目を閉ざしているような、日本の現状をどう見るだろうかと思った。
戦艦大和は「沖縄を守るため」に出撃し、撃沈された(三菱重工提供)
■兼次映利加(かねし・えりか) 1985年、那覇市生まれ。高校卒業後、進学のため上京。会社勤務の傍ら、拉致被害者奪還のための街頭署名活動や、主に沖縄に関する問題についての執筆活動を続ける。共著に『国防女子が行く』(ビジネス社)。
【沖縄リポート】沖縄を守るため「大和」に代わり米軍にダメージ 12機168人の「義烈空挺隊」2016.05.11 ZAKZAK
太平洋戦争は沖縄を天王山として終結しました。例え悲しい敗戦に終わったとは申せ、地球の半ばを覆う広大な戦域を舞台として優秀な連合軍の空軍を対手に戦い抜いた我が航空勢の健闘は国民は申すに及ばず世界の人々の・・・>>>つづき Okinawa yoluyukai
沖縄県平和祈念公園内に空華之塔はあります。那覇から平和記念公園は約22kmあります。沖縄本島の最南部糸満市摩文仁ありバス、タクシーもご利用できます。・・・>>>つづき Okinawa yoluyukai
琉球王「尚 穆」(しょうぼく)の時代36年の頃、首里士族で花火師の安里周当(あさとしゅうとう)が凧(たこ)用の飛翔体で、南風原村(はえばるそん)字津嘉山(あざつかざん)部落の自宅および付近の山野で飛行したとの逸話伝説あり。・・・>>>つづきPhoto:南風原町観光サイト
Okinawa yoluyukai
戦後70年が過ぎ会員の高齢化と会員数の減少に伴い、維持管理の費用もそれぞれが持ち出しという状況になっています。先の大戦で勇敢に戦った英霊の功績を後生に残したい思いでなんとか維持しいるのが現状と申せましょう。航空関係者のみならず多くの日本の方々に心よりご支援の程御願い申し上げます。 Okinawa yoluyukai