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沖縄戦で最初の特攻隊長(生きた証を石に刻む)伊舎堂用久中佐(RBC琉球放送 2013.09)

文字起こし(HP担当者)

特集です。
太平洋戦争当時、石垣島に陸軍特攻隊の基地があったことはご存知でしょうか。
その基地に駐屯した特攻隊の隊長は地元石垣島出身の一人の青年でした。
生まれ島から飛び立ち体当たり攻撃で命を落とした特攻隊員の知られざる半生を取材しました。

先月15日、68年目の終戦の日に、石垣島で石碑の除幕式が行われました。
沖縄戦の直前、石垣島から最初に出撃しアメリカ軍の艦船に体当たりして戦死した陸軍航空特攻隊の顕彰碑です。その特攻隊を率いていたのは、石垣島生まれで隊長の伊舎堂用久中佐でした。

「伊舎堂中佐と10名の隊員は、ここ石垣の陸軍飛行場白保基地から、家族、故郷、国を思いながら。戦況不利な状況で特別攻撃隊として飛び立ちました。」
(顕彰碑建立期成会 三木巌会長)

顕彰碑には、伊舎堂用久と共に、白保基地から飛び立った第一陣の10人とその後を追った21人の合わせて31人の名前が刻まれました。

太平洋戦争末期、石垣島には特攻隊の基地がありました。
旧石垣空港の跡地には、海軍の飛行場が、新空港の南側には陸軍の飛行場があり二つの飛行場から多くの特攻隊員が沖縄本島の空へと飛び立ち、帰らぬ人となりました。

その特攻隊を率いていた伊舎堂用久について、甥の用八さんに話を伺いました。

「こう書いてある(用久を知る人の本に)彼は優しく、包容力豊で、大人の風格、不思議な人物的魅力がある」(用八さん)

用久は、石垣島を出て陸軍士官学校へと進学、地上兵として訓練を積みますが、卒業を前にして航空兵科へ移るよう命ぜられパイロットへの道を歩み始めます。

卒業後、中国での戦闘に従事しますが、南洋諸島での戦局が厳しさを増す中、昭和19年4月、台湾へ移ります。用久は自ら操縦桿を握って台湾へ向かう途中、石垣島の実家の上を旋回して父への手紙の入った通信筒を投下します。その通信筒が伊舎堂家で大切に保管していました。

父への手紙
「用久元気、台湾花蓮港におることになりました。」「今前進する途中」
と書いて落としたわけですな。(用八さん)

台湾に移って半年が過ぎたころ、用久の元に特別攻撃隊結成の知らせが届きます。自ら特攻隊に志願し隊長に選ばれた用久は死を覚悟する胸のうちを綴った辞世の句を残しています。

「指折りつ 待ちに待ちたる機ぞ来る 千尋の海に散るぞたのしき 」(辞世の句の寄せ書き)

「誠第17飛行隊長になり、その隊長の自覚というのは、今まで訓練をしてきた中の総仕上げではないかなあ。さっきも話したように、「散るぞたのしき」ということはそういうことではないかなあ」(用八さん)

アメリカ軍が硫黄島に上陸した昭和20年の初め、用久は隊員と共に台湾から故郷石垣島の白保飛行場へと移ります。

「両親が向こう(白保)に行ってもなかなか(会わない)また両親も気を遣って(白保には)行こうとしない。そういう話を聞きました。それはそうだと思いますね、自分の部下がみんな他府県から来ているなか、自分だけそこ(実家)行くことはできないと。そのあたりの気遣いは軍人として隊長として責任があるんでしょうね」(用八さん)

そして運命の日、アメリカ軍が沖縄本島に上陸する6日前の3月26日午前5時50分、慶良間諸島沖を航行中の米軍の船団に用久は隊員10人と共に体当たり攻撃をし戦死しました。享年24歳でした。それが沖縄戦で最初の特攻だと言われています。

「生きては帰れない、死ななきゃ帰れないという任務は、名誉のためではないです。国のためです。私はこれしか言えない、国のために死んで行った」(用八さん)

遺骨さえも戻ってこない特攻隊、死んで行った特攻隊員の名前を石碑に刻み伝え残すことは遺族にとって長年の悲願でした。

「この石垣島から21名、計31名(特攻隊員)の方が飛んで行ったということを永久に残せるんだなと。こういう思いです」「肩の荷が下りました」(用八さん)

特攻隊員の生きた証は石碑に刻まれ、平和への強い願いと共に島の人たちの心の中に生きつづけます。

スタジオ

「あの、石垣島出身の特攻隊員がいたと言うことは、地元石垣でもあまり知られていないそうなんですが、基地があったそのものもあまり知られていないですよね」

「いろんなエピソードが出てきてますよね」

「ほんとですよね」

「この事実を伝え残して行くということで、今回有志の皆さんが期成会を結成して、顕彰碑の建立につなげたということですね」

「ま、今、尖閣諸島をめぐって日中間の緊張が高まっておりますけれども、用久さんの甥の用八さんはですね、お互い話し合うことで解決してほしい戦争は絶対起こしてはいけないと、言うふうに強く語っていたそうです」

「はい、特集でした」

文字起こしここまで


このRBC琉球放送の特集番組に出ていないが、この除幕式で中山義隆石垣市長のあいさつがありますので、ここに一部を掲載します。
中山義隆市長は「現代は若者のわがままの状況を目の当たりすることが多々ある。自己犠牲をいとわず、国を守る強い思いを持った戦時中の若い人たちの精神性に学ぶべきことは多い。自己犠牲や利他の心を取り戻したとき、わが国は再び世界に誇れる精神性の高い国になる」と述べ、恒久平和を願った。

また、この顕彰碑の建立には、期成会(会長・三木巌八重山防衛協会会長)に、全国1570人から集まった寄付金で建立しました。土地は市の協力を得ています。
(伊舍堂用久中佐と隊員の顕彰碑建立期成会Facebook)

ちなみに、伊舎堂隊などの特別攻撃は天一号作戦(沖縄方面航空作戦)で、特攻で有名な知覧からの出撃(菊水第一号(1945年4月6日-11日))の前に敢行しています。つまり、沖縄戦において第1号の特攻作戦でした。

天一号作戦による戦果

アメリカ軍の慶良間諸島上陸と同じ3月26日に、日本側では陸軍第10方面軍司令官と海軍連合艦隊司令長官が、天一号作戦を発令した[66]。同日中には早速、陸海軍の通常攻撃機46機が薄暮にアメリカ機動部隊を攻撃、また第8飛行師団誠第17飛行隊の九九式軍偵6機とその他8機合計14機の特攻機が慶良間沖のアメリカ艦隊を攻撃した[注 9]。本特攻隊は少数ながらも戦果は大きく、駆逐艦「オブライエン」大破・死傷者126名、駆逐艦「キンバリー」中破・死傷者61名、他に軽巡洋艦「ビロクシ」と駆逐艦2隻を損傷させている[69]。翌27日には沖縄本島の中飛行場より出撃した第8飛行師団誠第32飛行隊と海軍神風特攻隊の銀河や彗星合計26機が嘉手納沖のアメリカ艦隊を攻撃、戦艦「ネバダ」の第三主砲塔に1機が命中、14インチ砲を破壊し59名の死傷者を出させるなど、16隻の艦船に損害を与えている[70]。その後も沖縄本島や周辺諸島からの特攻出撃は続き、31日にはレイモンド・スプルーアンス中将率いる第5艦隊の旗艦重巡「インディアナポリス」に命中、大破・航行不能にさせた[70][注 10]。しかし、陸海軍ともに本土や台湾からの本格的な航空攻撃は4月に入ってからとなり、沖縄本島上陸前の時点では日本側の航空攻撃は未だ散発的であった。また、29日には本島配備の海上挺進第29戦隊のマルレ19隻が出撃し、中型揚陸艦1隻を撃沈している。(一部抜粋引用)
(沖縄戦 3戦闘経過3.3慶良間諸島の戦い wikipedia)

その後、菊水作戦の中、全軍特攻の精神のさきがけとなって戦艦大和が出撃しました。

伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑に刻む生きた証

伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑(画像は伊舍堂用久中佐と隊員の顕彰碑建立期成会Facebookより)

石垣島から出撃した特攻隊員( )内は享年と出身地

誠第十七飛行隊

伊舎堂用久 中佐(24・沖縄)
川瀬嘉紀 大尉 (24・三重)
芝崎茂 大尉 (24・埼玉)
黒田繹 少尉 (21・愛媛)
安原正文 大尉 (24・高知)
久保元治郎 大尉 (23・千葉)
有馬達郎 少尉 (17・鹿児島)
林至寛 少尉 (17・東京)

独立飛行第二十三中隊

阿部久作 大尉 (29・北海道)
須賀義榮 少尉 (23・千葉)
長野光宏 少尉 (21・東京)
金井勇 少尉 (21・富山)
岩本光守 少尉 (20・福岡又は朝鮮)
廣瀬秀夫 少尉 (19・香川)

飛行第十七戦隊

平井俊光 少佐 (21・岡山)
児子國高 大尉 (21・岡山)
西尾卓三 大尉 (25・東京)
国谷弘潤 大尉 (21・富山)
勝又敬 大尉 (24・愛知)
照崎善久 少尉 (21・大阪)
西川福治 少尉 (21・兵庫)

飛行第一○五戦隊

長谷川齋 大尉 (23・愛知)
山元正巳 少尉 (19・鹿児島)
永田一雄 少尉 (20・鹿児島)
石田勝 少尉 (20・岐阜)
小川多透 少尉 (20・福岡)
丸林仙冶 少尉 (19・岡山)
内藤善次 少佐 (22・東京)

飛行第十九戦隊

根本敏雄 大尉 (22・千葉)
倉澤和孝 大尉 (22・長野)
栗田常雄 少尉 (22・静岡)

計三十一名

あなた方のお陰で、平和で豊かな日本になりました。ありがとうございます。合掌

空華之塔(くげのとう)について

太平洋戦争は沖縄を天王山として終結しました。例え悲しい敗戦に終わったとは申せ、地球の半ばを覆う広大な戦域を舞台として優秀な連合軍の空軍を対手に戦い抜いた我が航空勢の健闘は国民は申すに及ばず世界の人々の・・・>>>つづき空華之塔 Okinawa yoluyukai

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沖縄県平和祈念公園内に空華之塔はあります。那覇から平和記念公園は約22kmあります。沖縄本島の最南部糸満市摩文仁ありバス、タクシーもご利用できます。・・・>>>つづき案内地図 Okinawa yoluyukai

沖縄航空史

琉球王「尚 穆」(しょうぼく)の時代36年の頃、首里士族で花火師の安里周当(あさとしゅうとう)が凧(たこ)用の飛翔体で、南風原村(はえばるそん)字津嘉山(あざつかざん)部落の自宅および付近の山野で飛行したとの逸話伝説あり。・・・>>>つづき飛び安里Photo:南風原町観光サイト
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