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台湾で神になった日本兵 夢のお告げで“里帰り”産経新聞2016.9.21

台湾南部・台南市の飛虎将軍廟に祭られている杉浦茂峰兵曹長の写真(田中靖人撮影)台湾南部・台南市の飛虎将軍廟に祭られている杉浦茂峰兵曹長の写真(田中靖人撮影)

【台南=田中靖人】先の大戦末期に台湾南部の台南市で戦死し、現地で神として祭られている杉浦茂峰海軍兵曹長の神像が、杉浦氏の出身地、水戸市に“里帰り”することになり21日、台湾を出発した。

戦後、地元の人々が集落を守るために命を落とした杉浦氏を悼み、落下地点に71年に廟を建設。「飛虎将軍」と呼び、朝夕に「君が代」と「海ゆかば」の演奏を流し弔っている。

“里帰り”の計画は今年春、廟を訪れた日本人作家の夢枕で、杉浦氏が「水戸に帰りたい」と話したことから始まった。廟が所属する寺院「海尾朝皇宮」の管理委員会が占いで主神の「意志」を確認したところ、その通りだとの結果が出たという。

杉浦氏の神像は、軍刀を持って座った姿の高さ30センチ程度の木像。21日朝、祭壇からケースに移され、関係者約30人とともに南部・高雄空港から成田空港に向かった。主神が廟の外に出るのは初めてで、中華航空は神像のために座席の手配に応じた。同日中に水戸市に到着、22日に護国神社で慰霊祭が行われる。神像は再び台湾に戻るが、分祀(ぶんし)の計画もあるという。

台湾南部・台南市の飛虎将軍廟に祭られている杉浦茂峰兵曹長の写真(田中靖人撮影)台湾南部・台南市の飛虎将軍廟に祭られている杉浦茂峰兵曹長の写真(田中靖人撮影)

管理委員会の呉進池主任委員(60)は21日朝、「いつも厳粛な表情の飛虎将軍が、今日はほほ笑んでいるようだ」と話した。産経新聞2016.9.21


台湾で神になった日本兵「飛虎将軍」その気概は今も自衛隊のパイロットに受け継がれている9月23日産経新聞【産経抄】2016.9.23

水戸市に“里帰り”する杉浦茂峰海軍兵曹長の神像「飛虎将軍像」=21日、台南市(田中靖人撮影)水戸市に“里帰り”する杉浦茂峰海軍兵曹長の神像「飛虎将軍像」=21日、台南市(田中靖人撮影)

台湾では南部を中心にあちこちで、日本人が神として祭られているらしい。日本の統治下に入ってまもなく、嘉義県(かぎ)の村に赴任した森川清治郎巡査もその一人である。森川巡査は学校を造り、飢饉(ききん)の際は村人に食べ物を配った。役所が増税を決めると、軽減を訴えた。

▼そのため懲戒処分となった森川巡査は、自ら命を絶った。約20年後、村の周辺でコレラが流行する。「環境衛生に注意しなさい」。ある晩、村長の夢に出てきた森川巡査のお告げに従うと、混乱が収まった。村人たちは「義愛公」の尊称をつけ、ご神体を造るに至る。

▼先の大戦末期に台南市で戦死した杉浦茂峰(しげみね)少尉は、現地で「飛虎将軍」として、祭られている。杉浦少尉もまた今年春、廟(びょう)を訪れた日本人作家の夢枕に立った。「故郷の水戸に帰りたい」。このお告げが契機となって、杉浦少尉の神像の里帰りが実現する。昨日、水戸市の護国神社で慰霊祭が行われた。

▼零戦の搭乗員だった当時20歳の杉浦少尉は、来襲する米軍機を迎撃中に被弾した。脱出が遅れたのは、集落への墜落を避けようと、できるだけ遠ざかろうとしたためだ。空中爆発の直前にパラシュートで降下する途中、米軍機の機銃掃射を浴びた。地元の守り神となった所以(ゆえん)である。

21日、台湾南部・台南市の廟で、祭壇から下ろされ移動用のケースに移される飛虎将軍像(田中靖人撮影)21日、台湾南部・台南市の廟で、祭壇から下ろされ移動用のケースに移される飛虎将軍像(田中靖人撮影)

▼平成11年11月、航空自衛隊の練習機が、埼玉県狭山市の入間川河川敷に墜落し、2人の自衛官が殉職する事故があった。原因は、エンジントラブルである。操縦していた2人は、住民の巻き添えを避けるために、危険回避のコースを最後まで取ろうとした。

▼墜落直前に脱出したときは、高度が足りず、パラシュートが十分開かなかった。「飛虎将軍」の気概は、今も自衛隊のパイロットに脈々と受け継がれている。産経新聞【産経抄】2016.9.23


飛虎将軍廟wikipedia

飛虎将軍廟(ひこしょうぐんびょう、正式名称:鎮安堂飛虎将軍廟)は、台湾台南市安南区同安路127号にある民間信仰の廟で日本軍人が神として祀られている。

1944年台湾で日本海軍の兵曹長で茨城県水戸市出身の杉浦茂峰は、台湾沖航空戦に出撃。10月12日午前、台南上空でアメリカ空軍を迎え撃つも撃墜され畑の中に落ちて戦死した。軍靴には「杉浦」と書かれていて、その後第二〇一海軍航空隊分隊長の森山敏夫大尉の協力で、この飛行士が「杉浦茂峰」と判明[1]。

第二次世界大戦後、村のあちこちで不思議な夢を見たという噂が広まった。白い帽子と服を着た日本の若い海軍士官が枕元に立っているという夢を見たという者が、皆に話したら、同じ夢を見たという者が数名名乗りでた。その後部落の有志が集まり、その海軍士官が部落を戦火から救うために、自分の生命を犠牲にしたことが判明。そして1971年、杉浦茂峰を祀るためにこの廟を建設した。

現在は毎日管理人が朝夕二回、タバコを点火して神像と写真に捧げて、日本の国歌「君が代」、午後は「海ゆかば」を祝詞として歌っている。

煙草を奉納される飛虎将軍廟神像。3体の神像はいずれも杉浦茂峰像で、脇の2体は信者から要望があった際に貸し出される煙草を奉納される飛虎将軍廟神像。3体の神像はいずれも杉浦茂峰像で、脇の2体は信者から要望があった際に貸し出される

杉浦茂峰(しげみね) (1923年11月9日 - 1944年10月12日) 茨城県水戸市出身。志願兵として乙種飛行予科練に入隊した。1944年10月12日に零戦32型で米軍機F6Fと交戦し、撃墜され戦死。死後、功6級金鵄勲章と勲7等青色桐葉章が授与された[2]。(wikipedia


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太平洋戦争は沖縄を天王山として終結しました。例え悲しい敗戦に終わったとは申せ、地球の半ばを覆う広大な戦域を舞台として優秀な連合軍の空軍を対手に戦い抜いた我が航空勢の健闘は国民は申すに及ばず世界の人々の・・・>>>つづき空華之塔 Okinawa yoluyukai

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沖縄航空史

琉球王「尚 穆」(しょうぼく)の時代36年の頃、首里士族で花火師の安里周当(あさとしゅうとう)が凧(たこ)用の飛翔体で、南風原村(はえばるそん)字津嘉山(あざつかざん)部落の自宅および付近の山野で飛行したとの逸話伝説あり。・・・>>>つづき飛び安里Photo:南風原町観光サイト
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