立ち上る火柱と黒煙、「桜花」が敵艦に突入するのを確かに見た…特攻隊護衛の元零戦パイロットの証言(下)(産経新聞west2016.11.15)
仲の良かった4人での記念写真。前列左が野口さん、隣が畠山さん。2人は教官で後列の2人は練習生だ=昭和19年6月(野口さん提供)第二次世界大戦で劣勢に立たされた日本海軍は昭和19年11月、特攻用の航空機「桜花」を戦力とした特攻隊「海軍神雷部隊」を発足する。そして翌20年3月21日、「第一回神雷桜花特別攻撃隊」が出撃する。初の特攻だ。「プロペラはないし、計器も数個しか付いていない。これでどうやって飛ぶのだ?」。零戦パイロットの野口剛さん(91)は初めてその姿を見たとき、こう驚いた。その桜花を搭載した一式陸上攻撃機は同日正午前、次々と鹿児島・鹿屋の基地を離陸。野口さんは零戦で護衛するために編隊を追った。覚悟を決めて離陸した野口さんの頭の中に、離陸直前、上官から言われたこの言葉が何度もよぎったという。「腕で護(まも)れなかったら身を持って守れ」という言葉が…。 (戸津井康之)
「幼い頃から飛行機が好きで…。だからパイロットになりたかったんです」
「第一回神雷桜花特別攻撃隊」の一員として零戦で出撃した野口さんの任務は、桜花を搭載した一式陸上攻撃機の編隊を敵戦闘機から守り、目的地の沖縄方面まで送り届けること。
「私は左側の一番後ろの位置に付いて編隊を護衛しながら飛行しました。機体を上昇させたり下降させたり、また左右に行ったり来たりしながら。少しでも早く敵を見つけるためです」
この飛行方法を聞いて、ある映画のシーンが頭をよぎった。「永遠の0(ゼロ)」で特攻隊を護衛した主人公の零戦パイロット、宮部久蔵の飛行方法はまさにこれだったのだ…。
そのときだった。
「突然、後方から敵機に銃撃されました。前方しか見えていなかったのです…。敵機が左側に移動したので、私は右から高度を上げて戦おうとしたのですが、方向舵を撃たれ動かなくなってしまい、思うように操縦できませんでした」
編隊からの離脱を余儀なくされた野口さんは高度を下げながら、南大島の基地を目指した。島に不時着して機体を直し、編隊に戻るためだった。
ふらつく機体を操縦しながら、野口さんは原っぱの滑走路に何とか不時着した。「燃料補給してもらい再び離陸しようとしたのですが、整備士から『機体の穴をふさがなければ飛べない』と言われました」
翌日、鹿屋基地へ帰還した野口さんは、その後、幾度も桜花の護衛で出撃した。
桜花を搭載した一式陸上攻撃機は重量が重くなり、動きが鈍くなるため、護衛の零戦が編隊から離れてしまうと、敵機に簡単に撃ち落とされていったという。ほとんどの桜花が敵艦隊の上空にたどり着けないまま墜落していったのだ。
桜花の戦果は数えるほどしか記録に残されていない。だが、野口さんはこう断言した。
「私は一度だけ桜花が敵艦に突入するところを確かに見ました。駆逐艦か巡洋艦でした。桜花が突っ込むと真っ黒な火柱と煙が立ち上りました…」と。
次々と同僚らを失っていった悲しさ、つらさを一切表情に出さず、野口さんは神雷部隊の貴重な証言者となってくれた。
数時間に及ぶロングインタビュー中、終始、冷静沈着かつ気丈に語り続けてくれていた野口さんだが、ぐっと感情を押し込めるように小さく嗚咽(おえつ)する瞬間があった。目から涙がこぼれないように、ぐっと唇を噛みしめながら…。
それは「第一回神雷桜花特別攻撃隊」出撃3日前の3月18日、米艦隊による九州への空襲を阻止するために出撃した(ようげき)遨撃戦での出来事を語り始めたときだった。その出撃は野口さんにとって初の空中戦。零戦パイロットとしての初陣だった。
「無我夢中で隊長機に付いて飛ぶのが精いっぱいでした。引き金の引き方も思うようにならず、気づいたら機銃の弾薬が無くなっているという状態でした。4回ほど離着陸を繰り返し、弾薬と燃料を補給し、空中戦へ戻りました…」
日本海軍の被害は甚大だった。目の前で多くの僚機が撃墜されていくのを野口さんは目撃した。そしてこの日、野口さんの同期で一番仲の良かった友人の乗る零戦が帰還しなかった。
「私には両親がいるし、長男でもない。一緒に行こうか…」。こう語り合いながら神雷部隊へ志願したあのときの親友、畠山力(ちから)さんが戦死したのだ。
「基地で上官からよくこう言われてました。部隊で友人はできるだけつくるなと。その意味がこのとき、よく分かりました…」
野口さんが、「基地で仲の良かった4人で撮った」という記念写真を見せてくれた。そこには野口さんの隣で優しく微笑む畠山さんの姿があった。
「畠山と私が飛行教官、後ろの2人が練習生です」。4人ともまだ10代の若者だった。
もう1枚、野口さんが写真を見せてくれた。
陸軍基地の兵士が撮影してくれたという野口剛さんの写真=昭和20年、宮崎・都城(野口さん提供)飛行服に身を包み、飛行帽をかぶった若きパイロット、野口さん、その後ろには軍用機が写っている。
「鮮明な写真ですね。いつどこで撮影したのですか?」
苦笑しながら野口さんはこう説明してくれた。
「都城の基地へ向った際、上空から2つの基地が確認できました。一つの基地にはほとんど機体がなく、もう一つの基地にはたくさん駐機していたので、こちらだろうと、着陸したら、そこは陸軍の基地だったんですよ」
野口さんは初めて行く基地への移動だったため、間違って着陸したのだ。
「陸軍の隊員が近づいてきて、『ここは陸軍の滑走路だぞ。まあいい。今日はゆっくり泊まっていけ。明日、海軍の基地へ戻ればいいから』と言い、記念写真を撮ってくれたんですよ」
後日、この陸軍の兵士が現像して届けてくれたのがこの写真だ。
戦争で多くのものを失った。終戦後、野口さんはしばらく何もする気にならなかったという。
しかし、夢までは失ってはいなかった。
「幼い頃から飛行機が好きで。だからパイロットになりたかったんですよ…」。予科練を希望したのも、零戦パイロットになったのも、それが理由だ。
戦後、いろいろな仕事をしながら野口さんは民間パイロットになるための猛勉強をし、操縦士、通信士、航空士の試験をクリアし、民間ライセンスを取得。民間航空会社でYS11、DC9などの機長として世界の空を飛び続けた。
野口剛さんはダグラスDC9の機長として定年の60歳まで操縦桿を握った=昭和60年6月17日のラストフライト(野口さん提供)「DC9は定年の60歳まで機長を務めました」。定年後も野口さんの空への夢は終わらなかった。
さらに北海道から、九州まで、全国各地の民間航空会社でパイロットの教官などを務め、83歳まで現役パイロットとして操縦桿を握り続けたのだ。
野口さんたち特攻兵の証言を集めたノンフィクション「特攻 最後のインタビュー」(ハート出版)の漫画書籍化の準備が現在、進んでいる。
「桜花の特攻のような悲劇は二度と繰り返してはいけません。そのためにも過去の歴史を若い人たちにもっと知ってほしい」と野口さんは期待を込めた。
さまざまな悲哀を経験し、それでも大空に憧れ続けた野口さんのたぎる情熱は、いつまでも風化しない…。
桜花(おうか)は、日本海軍が太平洋戦争中に開発した特殊滑空機。特攻兵器として開発され、実戦に投入された。
Japanese Ohka at the Yasukuni Shrine. Note that I've deleted a guy in the bottom left corner of the photo. This is a replica of the Yokosuka MXY7 Ohka Model 11.ウィキペデアより抜粋
アメリカ軍はマナート・L・エベールのオールトン・E・パーカー艦長と副長と砲術長に25Pにもなる長文の詳細な戦闘記録を作らせ、TOP-SECRET扱いとし徹底的に分析している。その報告書には「それは今まで目にしたどんな飛行機よりも速かった。プロペラやエンジンは見かけられなかったので、この機体はジェットかロケットを推力にしているものと思われた。」と記述してあった。[153]マナート・L・エベールと同日に桜花が命中しながら、あまりの威力に艦体を突き抜けた為、撃沈を免れたスタンリー (駆逐艦) (英語版)の砲術長は「このミサイルが艦艇装備の自動火器の射程距離範囲内まで接近したなら、何物もその突進を停止させたり、その方向を変換させるのは無理である」と述べている。[154]
その設計思想と費用対効果の低さにより今日の日本では極めて評価が低い桜花であるが、鹵獲した桜花の調査結果や、また被害艦の戦闘報告を詳細に検証した当時のアメリカ海軍は、桜花をもっとも危険な兵器で、アメリカ軍の砲手やパイロットらにとってこれまでに遭遇したもっとも手におえない攻撃目標であると考えた。[155]『BAKA』と蔑んでみても、アメリカ軍艦隊全体に広まった恐怖は決して和らぐことはなかった[156]。
ウィキペデアより
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