訓練中にエンジン故障、教官が見せた片肺神業飛行“天女の舞”護衛なき重爆特攻「菊水隊」の真実(下)(産経新聞west2016.12.8)
米戦闘機の攻撃で被弾し火を噴く中村真さんの操縦する2番機(中村さん画)第二次世界大戦下、陸軍の百式重爆撃機「呑龍(どんりゅう)」パイロットとして、フィリピンのクラークフィールド基地に転戦していた中村真さん(93)に運命の日がやってくる。昭和19年12月14日、「菊水隊」と命名された陸軍特別攻撃隊二番機のパイロットに、当時21歳の中村さんは任命されたのだ。それは重爆(重爆撃機)のみで編成された特攻作戦だった。「それまでの出撃は敵が攻撃し難い夜間爆撃ばかり。突然の日中の爆撃命令でしたので“これは特攻だ”と覚悟しました」。中村さんは武者震いしながら自分を鼓舞したが、同じ機には通信士や機関砲手など5人が配置されており、「自分の操縦で敵艦に突っ込み、一緒に死なせていいものか…」という迷いが何度も頭の中をよぎったという。(戸津井康之)
特攻の出撃命令は前日の12月13日夜、隊員たちに伝えられたという。
中村さんは大正12年、福島県郡山市生まれ。昭和17年、仙台の操縦士養成所を卒業後、岐阜の陸軍飛行学校を経て、静岡・浜松の飛行第105戦隊へ配属される。
「隊長からは、それぞれ『確実な方法で敵を撃沈せよ』と訓示がありました。このとき体当たりで沈めろとは言わなかったんです」
一方で出撃前、隊長はこんな行動を取った。
「攻撃時に身につけるパラシュートの縛帯(ばくたい)と海に落ちたときに使う救命胴衣を戦隊本部のテントの中に脱ぎ捨てたんです。これを見て隊員全員がそれにならいました」。それは決死の覚悟を固めた瞬間だった。
フィリピンへ発つ直前の飛行服姿の中村真さん=昭和19年、立川で(中村さん提供)中村さんは同じ機体に乗る5人で集まり、こんな作戦を立てたという。
「一番大きな敵船を攻撃しよう。まず私が爆撃をしかけるので、前方射手は機銃を全弾撃ち込んでくれ。爆撃後、敵船を飛び越して海面スレスレを飛ぶから、今度は後部射手が機銃を全弾、撃ち込んでほしい。それでも敵船が沈まなかったら、反転して突っ込むから覚悟してもらいたい」
そして14日午前6時半頃、中村さんたち飛行第九五戦隊の重爆7機がクラークフィールド基地を離陸。デルカルメン基地から離陸した飛行第七四戦隊の重爆2機と上空で合流し編隊を組んだ。
9機中、中村さんは2番機パイロットとして、先頭を飛ぶ隊長機の右側に位置するよう機体を寄せた。
「約60機の戦闘機が重爆の護衛につくと聞いていたのですが結局、1機も来ませんでした。連日の連合軍の猛攻で、そんな数の戦闘機が残っているはずはなかったのです。私たちは重爆だけで目的地へ向かいました」
雲の上を飛びながら、中村さんはひたすら隊長機から離れないよう、そのすぐ後を追った。
「もうすぐ目的地だ…と思ったとき、隊長機が下降を始めました。そして、隊長機の前方背中にあるジュラルミン製の赤と白色で塗られた2本の信号旗がパンと立ち上がりました。『戦闘隊形を組め!』の合図です」
中村さんは隊長機の右翼ぎりぎりまで機体を近づけていき攻撃態勢をとった。
「ところが雲の下に出たのに、敵船が一隻も見当たらないのです。隊長機はなぜ攻撃の合図の旗を立てたのか? ハッと気づくと、十数機の米戦闘機が隊長機の後ろにくらいついていたのです。隊長機の機関砲手が必死の形相で応戦しているのが見えました」
米戦闘機P47サンダーボルトの攻撃で被弾した僚機が、中村さんの目の前で、次々と墜落していった。
「3番機が真っ赤な炎と黒煙を噴きながら海へ突っ込むとき、操縦席の後ろで、日の丸の鉢巻きを締めた機関砲手の軍曹が手をふって別れのあいつをしていた姿が今も目に焼き付いています」と中村さんはつぶやいた。
海面スレスレで敵機の攻撃をかわしていた中村さんの機体も被弾し火を噴いた。次の瞬間、操縦席に弾丸が撃ち込まれ、機体は海中に突っ込んでいった。
「これがそのときの様子です」。中村さんが自ら描いたという一枚の絵を見せてくれた。エンジンから真っ赤な火を噴きながら海面に墜落する直前の重爆。中村さんの乗る2番機だ。
「海中に投げ出され、無我夢中で泳いでいたら、フィリピンの現地人に助けられたのですが、実は彼らは抗日ゲリラだったんです」
僚機から投げ出され、島へ泳ぎ着いた仲間の隊員たちは次々とゲリラに銃殺されていったという。何とか生き残った中村さんは、その後、オーストラリアの捕虜収容所へ送られ、そこで終戦を迎えた。
「特攻出撃の日は私の命日であり、新しい誕生日でもあります」と中村さんは言う。
この19年12月14日の特攻で中村さんは戦死したと日本へ報告され、翌年5月に葬式が行われていた。
中村さんが捕虜収容所からようやく日本に帰国できたのは21年4月だった。
「戦死」と記録された中村さんは陸軍少尉に任官、国から勲章も授与されていた。だが、「私が生還したため“これを取り消す”という通知が家に来ました。さらに死亡により戸籍がなくなっていたので“死亡通知取り消し”の簡単なはがきが1枚、家に届きました」と中村さんは語る。さらに、「これが私の葬式で上官が読んでくれた弔辞です」と、達筆な文字で綴られた長文の弔辞の原文を見せてくれた。
「どうです。幼い頃から成績優秀、凄い経歴でしょう…」。その後、警視庁の警察官として32年間勤めあげた中村さんはこう語りながら愉快そうに笑った。
映画「進軍」を見て憧れた旅客機パイロットの道を断たれ、重爆パイロットとして特攻へ…。多くの同僚たちを失い、翻弄された青春を送った。しかし、中村さんは、そんな悲惨な過去の経験の辛さを微塵も表情に出さず、取材中終始、快活に明るく話し続けていた。
捕虜収容所では本名を隠すために捕虜同士、互いにあだ名で呼び合っていたという。「仲良くなった零戦パイロットのあだ名は“武蔵”でしたね。私? “どんさん”ですよ!」
重爆「呑龍」から付けられたあだ名だ。戦場での壮絶な日々の記憶さえ、楽しかった青春の思い出の1ページのように冗談で笑い飛ばしながら語る“どんさん”の柔和な笑顔に、人間の生命の強さ、尊さを改めて教えられた気がした。
百式重爆撃機「呑龍」の元パイロット、中村真さんは愛機の模型を手に戦史を振り返った太平洋戦争は沖縄を天王山として終結しました。例え悲しい敗戦に終わったとは申せ、地球の半ばを覆う広大な戦域を舞台として優秀な連合軍の空軍を対手に戦い抜いた我が航空勢の健闘は国民は申すに及ばず世界の人々の・・・>>>つづき Okinawa yoluyukai
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