先の大戦で沖縄並びに航空戦に散華された先輩、同僚、また運命を共にした航空機材の冥福を祈ります。 沖縄翼友会
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南方航空輸送部

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 南西航空の歌

五十七年ぶりのタクロバン空港 元JAL機長 三橋 孝(元南航会々長 )

昭和十九年十月始め私の所属する南方航空輸送部ジャカルタ乗訓部へ、急ぎマニラに飛び、マニラ ― タクロバンの 空輸特任(特別任務)に当たれとの電報が南方総軍司令部から入った。 翌日MCⅡ型常盤号に機長三橋、副機長日高、通信士宮下、機関士和智の四名編成でクマヨラン飛行場よりボルネオ、 クチン経由にてマニラへ直航した。

途中ボルネオ北端とパラワン列島の間スル海を航空中の戦艦武蔵、それと並列していた重巡洋艦一隻、それを取巻く小型艦艇二十数隻、 を雲の合間から見たとき驚きました。五十七年の年月が過ぎても今も私の頭の中に焼きついています。 どうみても威風堂々の日本海軍の栗田艦隊とは思えませんでした。

マニラから悪天候の中レイテ、タクロバンの飛行場へ秘密兵器(レーダー?)を空輸して爆撃の穴だらけの滑走路へうまく着陸出来て、 海軍の土屋中将(不思議に覚えています)より上空にグラマンがおるから急いで物資を下して離陸する様に指示されました。

離陸直前にに陸軍の兵隊さんが搭乗を懇願され、早く早くとタクロバンを離陸しました。マニラ附近が悪天候で真黒な壁の様なスコール のため、マスバテ島に引換えし不時着場に強硬着陸、三日間連続の豪雨でした。

恐らく台風か熱低があの附近にあったと予想されます。マスバテ島には輸送船が撃沈され上陸していた熊本の招集兵ばかりの集団の 兵隊さん約一〇〇〇名に助けられ、全員で離陸のための滑走路(?)の草刈りをして頂き無事離陸に成功。

隣のバゴロド飛行場へ着いたら又爆撃の穴だらけ、飛行場で車輪が穴へはまり込み一夜バゴロドで過してマニラへ引返しました。

遠い昔の事です。

今回の比島巡礼の旅で、二月二十四日レイテ、タクロバンのバークホテル宿泊、図らずも二月二十四日は私の七十九才の誕生日でした。 同行の皆さんから祝福されて大きなバースデーケーキを頂きました。その夜ベットに入り、幾多の仲間の戦没者の顔が思い出され 眠れぬ夜でした。いつまでも戦いのない空港であって欲しいものです。合掌

今日三月十六日は六十年前マッカーサーがアイシャルリランバック・・・・と言って比島を離れた日だそうです。

下記の画像は当時の原本のコピーです。※クリック拡大

 五十七年ぶりのタクロバン空港

南方航空輸送部当時の写真①

南方航空輸送部当時の写真①

南方航空輸送部当時の写真②

南方航空輸送部当時の写真②

南方航空輸送部戦没者慰霊祭での集合写真

南方航空輸送部戦没者慰霊祭での集合写真

空華之塔(くげのとう)について

太平洋戦争は沖縄を天王山として終結しました。例え悲しい敗戦に終わったとは申せ、地球の半ばを覆う広大な戦域を舞台として優秀な連合軍の空軍を対手に戦い抜いた我が航空勢の健闘は国民は申すに及ばず世界の人々の・・・>>>つづき空華之塔 Okinawa yoluyukai

アクセス

沖縄県平和祈念公園内に空華之塔はあります。那覇から平和記念公園は約22kmあります。沖縄本島の最南部糸満市摩文仁ありバス、タクシーもご利用できます。・・・>>>つづき案内地図 Okinawa yoluyukai

沖縄航空史

琉球王「尚 穆」(しょうぼく)の時代36年の頃、首里士族で花火師の安里周当(あさとしゅうとう)が凧(たこ)用の飛翔体で、南風原村(はえばるそん)字津嘉山(あざつかざん)部落の自宅および付近の山野で飛行したとの逸話伝説あり。・・・>>>つづき飛び安里Photo:南風原町観光サイト
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寄付について

戦後70年が過ぎ会員の高齢化と会員数の減少に伴い、維持管理の費用もそれぞれが持ち出しという状況になっています。先の大戦で勇敢に戦った英霊の功績を後生に残したい思いでなんとか維持しいるのが現状と申せましょう。航空関係者のみならず多くの日本の方々に心よりご支援の程御願い申し上げます。 Okinawa yoluyukai